後の大統領の朴正熙も、日本の官憲が家に来て、子どもを学校に行かせない親は逮捕すると脅されたから、学校に行かせてもらい、勉強することができたと話しとる。愚民化政策なんて、やっとらんわ!
— だいちゃん (@daisukedaichan) January 20, 2025
日本が朝鮮を併合していたのは、たったの40年間。
そのわずかな期間に莫大な資金と労力を注ぎこみ朝鮮人を人間レベルに引き上げた。
しかし、朝鮮では儒教の教えで、働く人間は卑しい、食って寝てるヤンバン(両班)が最高人格とされていたため、日本人が去った後は、元の非文明原始社会に戻った。— Nobuhiko Takagishi (@NTakagishi) January 5, 2025
津田梅子の手紙(米国との書簡) 2.2.2.1883(明治16)年9月30日の手紙
父が帰ってきました。2、3日前に、思ったよりも早く着いたのです。朝鮮についてとても興味深くおもしろい話をしてくれました。
いくつかの点では、動物の方がこのような汚い朝鮮人よりましだと思いますし、あるところには本当に野蛮な人びとがいるのです。
彼らは衣服や食料はとてもよいのですが、粗末に不潔につくられているのです。家は掘っ立て小屋のようだし、妻たちは完全に奴隷か囚人のようです。
寝食や労働のために一つの部屋からでることもせず、下層階級の人びとだけが日中、日光にあたるくらいのものです。
…彼らの習慣は下劣で、何もかもが汚くそして粗野なのです。…父が私に朝鮮について多くのことを話してくれました。
あなたの記事のために、聞いたことを書いてまとめたいと思います。きっと、とても関心をもたれると思いますので、書いたら送ります。ある意味で、世界で最悪の国のように思われます。
日本で出会った朝鮮の人たちは、人間的にも精神的にも日本人の特徴ととても似ていて、
善良で知的で頑強な男性に思われたのですが、どうして人間がそのようになれるのか驚きです。
既得権益を奪われたごく僅かな支配層「両斑」
文字が読めなかった国民に福沢諭吉の任務を受けてハングルを広め初のハングルの新聞を創刊した井上角五郎
木という木を薪に変え、禿山だった朝鮮半島、水害で退廃した朝鮮半島に植林事業を推し進めた浅川巧氏
恩を仇で返す
国際詐欺劇を執拗に繰り返す
朴正煕は1917年、慶尚北道の両班の家系だが没落して貧農となった家に生まれ、日本名を名乗って満州軍学校と陸軍士官学校で学び、関東軍の陸軍中尉として軍務についた。その中で、日本の青年将校の「昭和維新」の思想に心酔したと言われる。満州国崩壊後、韓国陸軍の士官学校に二期生で入学、三番の成績で卒業した。曲折はあったが軍の若手将校との知り合い、後のクーデターのメンバーとした。朴正煕の経歴に危険を感じたアメリカは当初は軍事クーデターを承認しなかったが、日本の池田首相は日韓国交回復には朴正煕の満州国人脈を使えると考え、アメリカに働きかけ、アメリカも朴政権承認に踏み切ったという。<文京洙『韓国現代史』2005 岩波新書 p.102-103>
朴前大統領は‘血書志願’にも屈せず再び挑戦し、翌年陸軍軍官学校第2期生選抜入学試験で全体240人の中で15番の成績で合格した。この過程には大邱師範学校で縁を結んだ関東軍大佐 有川圭一らの助けがあった。パク前大統領は1942年3月、満州国の‘最後の皇帝’溥儀が下賜する金張時計を受けとる優等生5人に入るほど優秀な成績で軍官学校を卒業した。同年10月日本陸軍士官学校本科3学年に編入し、1944年4月日本陸士を第57期で卒業した後、関東軍第23師団に配属された。同年7月には満州国軍第6軍官区歩兵第8団に移り小隊長として八路軍攻撃作戦に加担した。8団は初めは主に東北抗日英軍とソ連軍とに相対して戦った部隊だ。朴前大統領は1945年7月に満州国軍の中尉に進級した。1945年8月彼が属した第8団は多倫に進出しソ連軍の進撃を阻止せよとの命令を受け8月17日興隆に集結したが、そこで日本が崩壊したという消息を聞くことになる。中国八路軍により武装解除された朴前大統領は第8団に随いて北京に行った後、そこで旧日本軍や満州軍出身朝鮮人らを中心に編成された光復軍第3支隊平津大隊の第2中隊長を引き受けた。引き続き1946年4月平津大隊が解散した後、天津港から米国輸送船に乗り釜山港を通って帰国した。
クォン・オソン記者sage5th@hani.co.kr
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Source: 身体軸ラボ シーズン2
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