9月は,大阪・関西万博(2025年日本国際博覧会),そして東京で開催された世界陸上競技選手権大会に行ってきました.
大阪万博へは,始まって間もない5月に1回,そして今回は2回目でした.10月半ばで半年間の開催期間が終了するとあって,来場者数が毎日二十万人越えにまで激増しており,入場するのもパビリオンに入るのも一苦労でした.
1回目は三菱未来館,日本館,中国館,スペイン館など多くのパビリオンに比較的容易に入ることができましたが,2回目は初めから人気のパソナ,アメリカ館,フランス館のみに絞り,酷暑の中汗だくになりながら合計4時間あまりも並んですべて無事入館出来,楽しむことができました.
さて,開幕前には「建設費や運営費などの費用が青天井」「工事は遅れ放題で準備が間に合わない」「そもそもいまさら万博なんかに意味はあるのか」と懐疑的な意見や批判が渦巻いていて,例によって左派マスコミが煽りまくるのはもちろん,ご立派にも批判本まで出版されていた大阪万博.
ところが,いざ始まってしまえば,そんな懸念はどこへ行ったのか,入場ゲートをくぐった瞬間に,チケット代と一緒に疑念まで払ってしまったのでしようか?会場は賑わい,あれほど声を荒げて辛辣に批判していた人も含め,来場者は楽しげに映えスポットを探しては写真を撮り,そしてマスコミは恥ずかしげもなく批判を忘れたかのようにイベントの華やかさを伝えるばかり.
私自身はもともとこの風潮に対して,どうしてそんなにネガティブなことばかり言って批判するのか?どうしてみんなで盛り上げようとしないのか?と開催前から苦々しく思っていました.しかし実際に行ってみれば案の定,会場は活気にあふれ,大盛り上がりだったわけで,世界中の様々な文化やイベントを非日常的な雰囲気の中で楽しく体感することができ,行けて本当によかったと思いますし,この10月で終わってしまうことに寂しささえ感じるのは多くの他の人と同じです.
結局,日本では問題提起は熱心でも,いざ現場の熱気を前にすると手のひらを返したり,始まってしまえばなんとなく楽しく盛り上がること自体が,良くも悪しくも一種の国民性であり,風物詩なのかもしれません.
とにもかくにもこの万博,開催後も運営方法などで様々な問題点も指摘されたものの,なんとか黒字化にもこぎつけたようで,これが今後の関西の経済にとって起爆剤となればいいと思います.
それから,世界陸上.
2年ごとに世界各地で開催されていますが,日本で開催されるのは2007年の大阪以来です.幸運にも1年前にチケットが手に入り,現地での観戦が実現しました.
大会2日目,夕方6時半からのセッションに入場.初めての巨大な新国立競技場はまさに現代のコロッセウム.
男子・女子400m予選,100m準決勝&決勝,男子走高跳予選,女子円盤投げ決勝,女子1500m準決勝,男女10000m決勝,女子走幅跳決勝と盛りだくさん.
日本人アスリートへの応援はもちろんでしたが,何よりも世界トップレベルの選手のパフォーマンスを目の前で見るのは鳥肌ものでした.ウサイン・ボルトもゲスト出演しており,感動しました.
6万人以上の観客数で会場の熱気が半端なく,地響きのような大歓声に包まれて,高揚感と一体感にどっぷりと浸れて,本当に素晴らしいひとときを過ごすことができました.
万博もそうでしたが,やはりその場の独特の空気感などは,旅行などと同じく現地に出向いてこそ肌身で感じられるものだと今回も強く感じました.
そして今回の世界陸上を直接この眼でみて何より痛感したのは,やはりトラック競技では黒人系選手の独壇場ということです.日本人でも決勝まで残れたアスリートのほとんどはやはりアフリカ諸国とのハーフでした.
速筋線維の比率,骨格や筋腱の付き方といった身体的特徴とか,ケニアやエチオピアのような高地で育つことで酸素摂取効率が高まり,子供の頃から通学のために長距離を走るような習慣が自然に基礎体力を作るとか,高額な報奨金が大きなインセンティブになり選手層の厚みを出しているとか,考えられる理由は色々あるようです.
これらにどこまでエビデンスがあるかは議論の余地がありますが,何よりも競技の結果がそれを雄弁に語っています.
こうした身体能力の違いを語る際は,どうしても過去の人種観を思い出します.たとえばドイツの人類学者 ヨハン・フリードリヒ・ブルーメンバッハのように,人類を「モンゴロイド」「コーカソイド」「ニグロイド」に分類して,何かにつけ,欧米人の源流であるコーカソイドを「選ばれた人種」として優位性を誇示し,宗教や思想を背景に世界中で植民地支配や人種差別を正当化してきた歴史があります.
しかし,現代のスポーツを見れば,決してコーカソイドがすべての面で優れているわけではないのはもちろんで,上述のごとくトラック系競技で圧倒的な強さを見せるのはアフリカ系ですし,体操や卓球,柔道など細かい技を使うことに長けているのは我々日本人を含む東アジア系のようです.
つまり,個人個人では例外はあるものの,やはり努力だけではどうにもならない遺伝的な要素があることは否めないでしょう.しかしそれらは「優劣」ではなく,それぞれの民族や体格,遺伝的背景に応じて「得意分野」が分かれているだけで,スポーツはむしろ,その多様性をはっきりと映し出しているように思えます.
そしてむしろその違いがあるからこそ,国境や人種,政治の垣根を越えて競い合うスポーツの醍醐味が生まれるのだと思います. スタジアムで声援を送りながら,人類の多様性とその美しさを,改めて肌で感じました.
Source: Dr.OHKADO’s Blog


コメント