神の詩第二章第二~三節 2

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神の詩第二章第二~三節 2 

続きです。

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続きです。

この地上世界の二元の極性の中では、
人は
「すべては一つにつながっている」
という実在の本質から離され、
万物が独立したものと見なす特殊な分離意識を持つことになり、
そのおかげで
地球は魂の修業の場になってきました。

ただし、
この分離意識は
上手くいけば大きな霊的成長が見込めるものの、
魂の解脱のときには
大きな障壁となって立ちはだかることになります。

その障壁を乗り越えるための道具が、
各々の魂に内在され、
三種の神器に象徴されているのです。

私たちは、
自分に内在する三種の神器を使って、
「神が代」へと戻っていくことになります。

どんなことがあったとしても、
心の中に三種の神器があることは
忘れないでいただきたいと思います。

「真理によって腰を強固にして、神の武具を身にまとって立ちなさい。」
エドガー・ケイシー802-2

「あなたが今、置かれている境遇は、物質的にも、精神的にも、霊的にも、あなたがより大きなもの、さらに優れたものを成し遂げるために必要な成長をもたらしてくれるものである。あなたは、今の状況で全力を尽くし、やり通さなければならない。」
エドガー・ケイシー311-5

「それは汝に似合わない。」
クリシュナは、
アルジュナにこう言いました。

勇敢なアルジュナは、
すでに神の道を歩み始めています。

それにも関わらず
弱気になるなど全く似合っていないと指摘しています。

これは
アルジュナに、
本来の姿、
神の子としての永遠不滅の存在としての姿を
思い起こさせようとしています。

アルジュナにも、
クリシュナと同じ霊的原子が備わっているのです。

英語のVirtue(徳、美徳)の語源は、
サンスクリット語のvira(英雄)に由来するとされています。

英雄は、
美徳を備えた行動が求められるのです。

このクリシュナの言葉は、
日常における私たちへの問いかけになっています。

不安や恐怖心から人生の戦いを避けたり、
正しい行動を自粛することなく、
霊的な道を精進しているかを確認する言葉です。

何事も怖れることなく、
すべてに対して愛と思いやりの気持ちを持って行動しているか、
すべての人の中に、自分の中に真我を見ているか
を確認しています。

弱気を捨てて、
勇気を持って立ち上がること。

勇気とは、
何かすごいことをするときだけのものではありません。
本物の勇気とは、
毎日の一瞬一瞬を、純真に、丁寧に生きることです。

「死はたいしたことではない。苦痛もたいしたことではない。しかし、怖がり、臆病に生きることは万死に値する罪であり、これ以上の恥辱はない。」北米先住民の言葉
「すべての生物を、創造主と同じ質を持つ霊的原子として見ている者は、物事を正しく理解している。それならば、その者に幻想や不安が起こりえるだろうか?」イーシャ・ウパニシャッド

次回は

アルジュナ
「クリシュナよ、尊敬に値するビーシュマとドローナに、どうして弓矢を持って立ち向かうことができようか。(四)」
「この偉大な師匠達を殺すくらいなら、乞食をして生きる方がはるかに良い。彼等を殺せば、この世で得られる富も快楽も血にまみれるだろう。(五)」
「我等が彼等に勝つべきか、彼等が我等に勝つべきか、どちらが良いのか、私にはわからない。ドリタラーシュトラの息子達は我等の前に立っている。彼等を殺して生きていたいとは思わない。(六)」

よく内観しておいてください。

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Source: ひかたま(光の魂たち)

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