(① の続きです。)
“面(おもて=顔)を上げられよ”として、大神神社の拝殿奥へと視線を向けると、そこには、わたくし自身の祖先たちの姿が、一代前、さらにその一代前と、順に遡(さかのぼ)る形で連なり、遥か彼方(かなた)に、ついには神々へと向かう、それら御霊の“系譜”が示されました。
こうして、人ひとりが生きるにも、これほどの御霊の存在を介してようやく実現する、実に奇跡的な出来事なのだとつくづく感じました。
ところで、霊視鑑定士として生きるとは、皆様にとって必要な物事を霊的な事情(背景)から読み解き、言葉という手段でお伝えすることでもありますので、そこには、おそらくは一般に思われるよりも様々な霊の領域に、必要に応じて自らの霊体をアクセスさせることでもあります。
いわば、人間界のみならず、様々な霊層のなかを観念のなかで(自らの霊体が)行き来することを意味し、わが身を守るためにも、そういった霊を含めた外的な影響を極力少なくすることが必然的に求められるのです。
そして、たとえば一人の方を霊視するにも、そこには単純な霊的要素のみで完結するということは皆無で、実際には、様々な類(たぐ)いのエネルギーを選(え)り分け、順に紐解いてまいります。
当然、わたくし自身もまた、そういった幾多の霊的類いを、自らの霊体を対象のエネルギーにアクセスしつつ、対応をそれぞれにしていきますので、究極的にはどのような霊(霊層)にもアクセスできる“オールマイティ”の域を目指していくこととなります。
では、そうした霊的類いを自らにすべて持ち合わせていれば良いのかと申しますと、実のところ、霊的な作用は強弱こそあれ影響を及ぼさないことはなく、むしろ、人間という生身の生命であれば、この多さはむしろ霊的に混乱を招く恐れもあり、けして適っていることではありません。
ですので、幾多の霊的な類いは適宜感じ分けつつも、それらに左右されない、ある種の“独立性”を保つこともまた不可欠なのです。
無論、わたくしも今世は人間としての生命をいただいておりますので、当然自らが、種(しゅ)としての人間の生命の営みのなかに(今世の自分として)存在していることは承知しておりますし、感謝の念もあります。
ただし、これまで霊視の道を歩む際には、こうした祖先よりの系譜からの自分、という側面はほぼ意識したことがなく、良否承知の上で、ごく“単体”としてのスタンスで過ごしてまいりました。
遠い祖先を意識し、それらの存在からの霊的な力を得られたとしても、優れた面もあれば、その反面、すでにその力には多少なりとも“色付け(=特徴)”はあるはずで、そうした場合には、自身の霊的な力配分・感じ分けのなかで得意不得意が発生する可能性を、自ずと避けてきたと申しても過言ではありません。
霊能を司る者は、元々目に見えない物事について対応するため、一般にはなかなか理解されがたい側面もありますし、上記のような事情を常に脳裏に過(よぎ)らせておりますので、実際には“孤独な生き方”をしているとも申せます。
自らが今世にもたらした霊的な物事を、誰に依拠せず(誰の責任にもせず)まるごと自身の責任において引き受ける、この覚悟もまた心内には常に据(す)えているのです。
(次回③ 最終回です。)
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Source: 神々からのメッセージ
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