【Rinokiaのひとり言】鹿島神宮(いつかの結実を信じ、ひたすらに歩め)

その他

神社参拝の際に、たとえば拝殿にての祈りで神からの御言葉を賜ったのちも、実際にはもう少し御言葉が続くこともよくあります。

神との真剣な対話に臨み、その後、少し自身の気分が少々和らいだ際に、にわかにポンと啓示が入るような要領です。

普段はわたくしも様々な活動をしておりますから、思い立ったらという勢いですぐさま参拝できるわけではありません。

ましてや遠方の神社になりますと、行きたい気持ちはありながらも、ようやく数年に一度ということにもなります。

ですから、今年の春先にお伺いした香取神宮鹿島神宮も、現実的には、年に一度行けるかどうかというペースで、参拝が決まりますと、やはり少なからず様々な考えが頭を過(よぎ)ってまいります。

日本をはじめとした世界的な動向が、神の眼からは果たしてどのように御覧になっているのか、そして、わたくし自身の在り方などもまた神の審判を受けるくらいの気持ちで参拝に臨みます。

前回書かせていただいた、鹿島神宮での神の御言葉ののち、雨降りしきる奥参道を歩いておりますと、再び静かに神の声が聴こえてまいりました。

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「“こうしたい”という願望の観念は、それ自体、自らの枠(=世界観)にて想い描ける領域である。

それはまさに、自らのこれまでの歩み(生き方・価値観)の“縮図”とも言える。

無論、現象界にては、至る(=叶う)ことも、また無碍(むげ)に至らぬ(=不条理にも叶わぬ)こともあろう。

しかしながら、人間の妙(=凄さ)はすでにここに在(あ)りて、自らに思い描く願望は、まるで至らぬ(=まるっきり叶わぬ)ことも、無い。

つまりは、それ(願望)を想い描いた時点で、すでにその(願望の)発露(※心の中の事柄が表に現れ出ること)は成され、仮に目前に見えず(現れず)とも、必ずやこの世にその作用が及ぼされ、あるいは(後世において)“結実”を見せることになるだろう。

それほど、人は本来、実に息の長い“歩み”を辿り、その結実を幾重にもこの世に遺している。

この、ひたすらに長く、そして深淵なる人類こその連綿たる繋がりを信じ、今もなお(=今日もまた)、ひたすらに歩まれよ。」

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Source: 神々からのメッセージ

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