神の詩 第5章八・九節 3

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神の詩 第5章八・九節 3

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「真我に意識を集中した聖者は、見たり、聞いたり、触れたり、嘆いだり、食べたり、動いたり、眠ったり、呼吸したり、話したり、排池したり、つかんだり、目を開閉したりしていても、「私は何もしていない。感覚がその対象に働いているにすぎない。」と考える。(八、九)」

続きです。

真我に近づいていく段階から、
感応する意識が高くなり、
美に対する感覚が繊細に精妙になっていくことが自覚されます。

それは、
自分の中に在るより高いレベルの意識が働くようになるからです。

例えば、
道端に咲く小さな花に対しても、
意識が低い状態であれば、
無視したり、
踏みつけたり、
花を摘んだりするでしょう。

でも、
意識が高くなって、
美に対する感覚が精妙になっていくと、
その花の持つ真の美しさを引き出していくことが
出来るようになります。

「逢花打花、逢月打月」
(花に逢えば花を打つ、月に逢えば月を打つ)
という言葉があります。

打つ(たす)とは、
左右の両手を打つように、
ぴたりと合わさる様を言います。

花を観たら
花とぴったり合わさる、

月を観たら
月とぴったり合わさる。

つまり
花に逢った時には、
何も頭で考えることなく、
花と自分の深い意識を合わせてみることを表しています。

花を見る時には、
名前も名前の由来も、花の形も、雄しべの数も、植物に含まれる成分も、
頭で考える必要はありません。

それらは
人間の都合で
名称を付けただけのこと。

まずは、
その花の波動が奏でる美しい旋律を、
純粋にハートで味わってみましょう。

続きます。

神理の扉 聖なる変容と霊性進化の道
光田秀&森井啓二
きれい・ねっと
2020-04-12


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Source: ひかたま(光の魂たち)

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