続きです。
「心と感覚の働きを制御し」
これが
ヨーガ八支則の五番目である
「プラーティヤハーラ(感覚の制御)」
になります。
ヨーガ八支則の五番目である
「プラーティヤハーラ(感覚の制御)」
になります。
「カタ・ウパニシャッド」には、
身体を馬が繋がれた戦車に喩えて、
感覚器官を戦車に繋がれた馬に喩えています。
身体を馬が繋がれた戦車に喩えて、
感覚器官を戦車に繋がれた馬に喩えています。
馬は、
サンスクリット語で「アスワム」と言いますが、
この名称は
「アスワ(変わりやすい、落ち着かない)」
という語源に由来しています。
馬は動的な生き物で、
いつも動いている様子を感覚器官に喩えてるのです。
人が神の高みにまで到達するためには、
感覚器官という馬を暴走させることなく、
正しく導かなければなりません。
感覚器官という馬を暴走させることなく、
正しく導かなければなりません。
瞑想を始めたばかりの段階では、
さまざまな想念が沸き上がり、
いかに心が彷徨っているかを
思い知らされることになります。
さまざまな想念が沸き上がり、
いかに心が彷徨っているかを
思い知らされることになります。
そして、
心だけでなく、
身体も居心地が悪くなったり、
背中が痒くなったり、首が凝ってきたり……、
さらに
感覚器官も鋭敏となり、
些細な音が気になったり、匂いに気をとられたり……。
心だけでなく、
身体も居心地が悪くなったり、
背中が痒くなったり、首が凝ってきたり……、
さらに
感覚器官も鋭敏となり、
些細な音が気になったり、匂いに気をとられたり……。
心が鎮まっていく前に、
自分の内面の世界が、
まるで戦争前の騒がしさのような状態になります。
自分の内面の世界が、
まるで戦争前の騒がしさのような状態になります。
それでも
これからの道標は自覚している状態。
これからの道標は自覚している状態。
この状態は、
バガヴァッド・ギーターの第1章に比喩的に示されています。
第1章において、
アルジュナの心は大きく乱れても、
瞑想と共にヨーガの道を確実に歩むことによって、
最終的には完全な涅槃の境地に到達することが、
この聖典を通して明確に示されています。
私たちの感覚器官は、
通常は外側の世界へと向けられてきたので、
瞑想の始めにはこのような現象が誰にでも起こるのです。
通常は外側の世界へと向けられてきたので、
瞑想の始めにはこのような現象が誰にでも起こるのです。
第1章の最後に、
アルジュナは弓と矢を投げ捨てて、
戦車の座席に坐りこみました。
アルジュナは弓と矢を投げ捨てて、
戦車の座席に坐りこみました。
これを読んで、
どう感じたでしょうか?
勇敢な戦士であるアルジュナは、
それまで数々の困難を克服してきました。
それまで数々の困難を克服してきました。
ここで、
弓と矢を投げ出したままでよいと思いますか?
このアルジュナの様子は、
天界から地上に下りてきた人が
地上の出来事に圧倒されて絶望している様子をも比喩しています。
天界から地上に下りてきた人が
地上の出来事に圧倒されて絶望している様子をも比喩しています。
瞑想もはじめは思うように出来ず、
心も集中とは程遠いほど彷徨ってしまい、
制御不能かのように思えるでしょう。
心も集中とは程遠いほど彷徨ってしまい、
制御不能かのように思えるでしょう。
でも全く焦る必要はありません。
誰でもそうなのですから。
一歩一歩歩みを進めていくうちに、
制御不能と思われた心は次第に制御されていき、
最終的に
いつの日か、
内在神である真我に、
そして
全宇宙の創造主である至高の存在と霊交するまでに高められるのです。
制御不能と思われた心は次第に制御されていき、
最終的に
いつの日か、
内在神である真我に、
そして
全宇宙の創造主である至高の存在と霊交するまでに高められるのです。
「自然な性向である落ち着きの無さを減じていき、永遠無限なるものに集中して瞑想することによって、坐法(アーサナ)は修得される」
(ヨーガ・スートラ第二章47)
(ヨーガ・スートラ第二章47)
続きます。
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Source: ひかたま(光の魂たち)
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