大半は密入国者で、、
それは難民なんですかね?
いつでも帰れる祖国がすぐ横にあります。
親族を呼び寄せて増やしているのは何故ですかね??
韓国・ 済州島チェジュド
で1948年に起き、大阪にも多くの島民が逃れてきた「四・三事件」の記憶を伝えるため、大阪市生野区の在日コリアンらでつくる調査チームが体験者らの聞き取りを進めている。証言を集めた報告書の作成に取り組む韓国政府の依頼によるもので、両国で公開される予定だ。メンバーらは「私たちのルーツを知ってほしい」と願う。(島田愛美)事件は、済州島で朝鮮半島の南北分断に反対する民衆が蜂起したことをきっかけに始まり、警察や軍の鎮圧などで島民が殺害された。その後、韓国では、厳しい南北対立の中、「共産主義者」とレッテルを貼られることを恐れ、事件を口にすることは長い間タブーとされてきた。
済州島と大阪の関係は深い。1922~45年には島と大阪港を結ぶ定期連絡船が運航し、大勢の島民が大阪に仕事を求めて移り住んだ。その人たちを頼りに、事件後に多くの島民が逃れてきた。大阪市生野区の在日コリアンは約1万9000人で、多くが島をルーツとする。調査の中心を担うのは、事件の遺族らでつくる「在日本済州四・三犠牲者遺族会」の 呉光現オグァンヒョン 会長(66)だ。生野区で生まれ育った在日コリアン2世。両親は島出身で、父の弟ら親族2人は事件で死亡した。
呉さんは高校生の頃、父に一度だけ事件について尋ねたことがあるが、「二度と口に出すな」と叱られ、「触れてはならない出来事」と考えてきた。(略)呉さんは「コリアタウンは今、若者らでにぎわう街になったが、事件のことはあまり知られていない。記憶が薄れゆく中、在日コリアンの歴史に目を向けるきっかけになってほしい」と力を込める。「母と祖父母、なぜ殺された」「今でも思い出し、胸が苦しくなる」。幼少期を済州島で暮らし、事件で家族を亡くした 康春子カンチュンジャ さん(80)(大阪府東大阪市)は調査チームの聞き取りに、自ら描いた絵を見せながら体験を語った。
当時は5歳。自宅近くで康さんが塀の隙間から広場をのぞくと、銃を持った男の前で母と祖父母の3人が穴を掘らされていた。その場から離れると、背中越しに爆音が鳴った。広場を見ると3人は消え、穴があった場所には土が盛られていた。ほどなくして3人は殺され、埋められたと知った。事件では無差別に銃殺され、木に縛り付けられた複数の遺体を目にした。島内で身寄りがなくなった康さんは数年後、大阪市で働く父の元に身を寄せた。
戦後、事件についての情報は少なく、「家族はなぜ殺されなければならなかったのか」と苦しんできた。島出身者の証言を聞くなどして事件の全容を知ったのは50歳の頃だった。在日コリアンの間でも事件を語りづらい雰囲気があり、家族にも詳しく話すことはなかった。康さんは「ずっと言葉にならない思いを抱えながら生きてきた。整理して聞いてくれ、ありがたく思う」と涙を浮かべて話した。◆四・三事件
1948年4月3日、日本の敗戦後、朝鮮半島南部の親米勢力と北部の北朝鮮労働党が対立する中、済州島で分断に反対する住民の一部が蜂起。54年にかけ、警察などによる鎮圧で殺害され、死者は3万人に上るとされる。2003年には当時の盧武鉉(ノ・ムヒョン)大統領が「公権力による虐殺」と認めて謝罪した。
>島出身者の証言を聞くなどして事件の全容を知ったのは50歳の頃だった。
コレ、、ほんまかー?と思いますね。
何せ、当時28~30歳くらいの在日の知り合いが、大阪の在日は済州島から来た人多いです、と説明していたからです。
読めばわかりますが、、
日本に住ませてもらった、特別永住者にさせてもらった、、
その恩義に対して一片の感謝も無い。
ただただ、
>呉さんは「コリアタウンは今、若者らでにぎわう街になったが、事件のことはあまり知られていない。記憶が薄れゆく中、在日コリアンの歴史に目を向けるきっかけになってほしい」と力を込める。
アタシのコトを知ってよーーーーー
アタシアタシだけ、、
それだけなんです。
そして、在日のほぼほとんどの方達が、、、
我々は強制連行されてきたぁぁぁという、、
嘘の歴史を何十年も前から子供に刷り込んできた。
平たく言えば、、、
内ゲバと密入国の方達。
日本人が知る必要があるのは、、、
彼らは
内ゲバと密入国で居座りがルーツの方達です。
という部分ですね。
コイツらは、、
日本の漁師が拿捕や銃撃で殺されて竹島が略奪された歴史は知っているんですかね?
ウトロだって、不法滞在の居座りで特別永住許可者です。犯罪的ルーツで記念館を建てて被害者コスプレです。
取り敢えずこの辺で。
※2つのランキングクリック宜しく。
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Source: 身体軸ラボ シーズン2
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