年齢が上がっていくと、
検査的には正常範囲内に全てが収まることが難しくなります。
検査的には正常範囲内に全てが収まることが難しくなります。
ただ…検査は標準偏差値なので、それが全て正しいとは限りません。
病気と寿命は全くの別物です。
それでは、どの様に年が重ねても健康でいられるか?
ということを話して行きたいと思います、d(^-^)ネ!
ということを話して行きたいと思います、d(^-^)ネ!
このことに対して「面白いな!」という記事があり、そのまま正しいと思いますので
その記事を部分的に拝借して読んでみましょう。
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前文章は省略
ただ、一つ感じることは、人は体が動くから何かをするのではなく、何かをするから、頭も、体もそれに応えてくれるのではないかと最近思います。例えば、朝散歩するだけなら、体もそれに応えてそのような体造りをし、もし、その人が毎日PCを使い、人に会い、行動するなら、体もえっ!、この人未だ色々挑戦するのか!としっかり食べ、体の維持をしてくれるのではないかと?!
従い、90になっても体が動くのではなく、90になっても何かをするから体がそれが出来るように働いてくれるのだと思います。それも、体の機能が維持できるよう、歯の維持や、タバコや飲みすぎで内臓が極端に劣化せず、そこそこ元気でいてくれるなど、好条件を維持しての事だと思います。
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これは高齢者だけでなく、若者にも同じことを指摘することが出来ます。
若者ならば…いつまでも親離れせずに自分の足で立つことを行わなければ、そのままで成長することはありません。親も子離れをしなければなりません。所詮、人は自分の足で立つことを欲求されますが…それは精神的にも同じの様に感じます。
また、先日いらした患者さん曰く「自分の体調が悪いのはコロナ禍の生活を変えていなかったからと始めて感じました」と。そうだよねぇ。通勤が無意味なものだとは感じません…通勤することにより朝は駅まで歩き、駅の階段を上がり、電車で目的地まで立って移動することなどは…意外に健康に取って大切だったものなのかも知れないのです。「通勤が無意味」ということはないと感じます。嫌なことにも全てに必然性があるということなのでしょう。
次は60才を過ぎて退職をした人に関してです。
定年退職して自分の好きに過ごす時間への意味合い…それが生きることに意味合いがあるのならば長生きも出来ると思います。ただし…人間の生というのは「他人に力を貸し助けて世の中を成長させる」ことが意味合いだと指摘している人が多い様です。自分の時間よりも他人や社会に対して…自分の力を注ぐことが長生きの秘訣の様な気がします。それには常識とはかけ離れている自分自身の視点から考えられることが重要です。常識は今の正しさで、将来の常識とは異なります。このことから私たちが新しい常識を少しずつ作って行くことが大切だと思えてなりません。
PS: (^・ω・^)…..ンニュニュ?
今日は真面目にブログ記事を書いてしまった様な??? でも自分は滅茶苦茶に見えても真面目に見えてもどちらでも良い様に思っています。自分の視点で…これが世の中の為になると思えば、それで良いと考えています。
今日は真面目にブログ記事を書いてしまった様な??? でも自分は滅茶苦茶に見えても真面目に見えてもどちらでも良い様に思っています。自分の視点で…これが世の中の為になると思えば、それで良いと考えています。
京都橘高等学校ブラスバンド部のパレードをしている彼女や彼ら達には分からないかも知れないんだけど…この若者達がしていることで希望を見いだし生きる勇気を貰っている観客は多いと思います。そのパフォーマンスをする練習量は計り知れないと思いますが…それを見た人の感動も計り知れないのだろうと思います。それが生きるということに繋がると感じます。
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