人が自分のことをどう思っているのかというのも雑念です。自分が社会的にどうかというのも雑念です。金持ちとか貧乏とかにこだわっているのも雑念です。人にどう見られているのかと気にするのも雑念です。「ああなるのではないか?こうなるのではないか?」と色々心配するのも雑念です。
そういう雑念が全く無くなって、目の前のことだけに没頭できる自分になることが雑念の無い自分になることなのですね。頭に雑念の無い自分が本来の自分です。禅で言う「本来の面目」ですね。だからこの世では、一度も本来の自分になることもなく一生を終える人が多いのです。本来の自分になって、目の前のことに没頭しながら一生を過ごすのが幸せな一生だと私は思いますよ。どうぞ明日の朝もロードバイクで走れますように!
いや、アホ臭い。
>「ああなるのではないか?こうなるのではないか?」と色々心配するのも雑念です。
雑念ってそんなに悪いことですか?と聞きたい。
ネガティブに余計な心配をしなくて良い、、ですけど、、
どういうリスクがあるか?というコトの整理と対策はした方が良い。
そういう雑念を具体的に組み立てて整理すれば、水害も軽減できたかもしれない。
そんなものは雑念だと無視した結果、濁流に飲み込まれたかもしれない。
雑念の中に気づきもヒントもあったりする。
そういう意味でワタシは雑念を排除しないですね。はい。
>頭に雑念の無い自分が本来の自分です。
それは違うと思いますね。
そもそもそれを「本来の自分」と定義することが「縛り」ではないかと、、、
何が幸せな一生なのかは、、
その人に拠るわけで、、、
それを自分の決めつけたカタチを押し付けるのが禅瞑想の逝きつき先であるならば、、
そのような瞑想は棄ててしまうのが、、
人として本来のミチだと思いますね。
ワタシは雑念を友として生きて行くと思います。
取り敢えずこの辺で。
※2つのランキングクリック宜しく。
Source: 身体軸ラボ シーズン2
コメント