先頃大阪へお伺いした際、大阪市天王寺区の和宗「勝鬘院(しょうまんいん)」をお参りいたしました。
こちらの御本尊は愛染明王で、別名“愛染堂”と呼ばれているそうです。
やや明るい色合いの朱塗りの藥医門(やくいもん)や、金堂(こんどう)などが印象的です。
金堂の裏手には、大阪市最古の木造建築物として国の重要文化財に指定されている“多宝塔”があり、金堂とともに聖徳太子が創建したといわれる、大変由緒ある寺院です。
境内には、“愛染かつら”の木や“愛染の霊水”など、興味をそそるお参りスポットがいくつもありましたが、残念ながら、わたくしがお参りした際は閉門間近のため、気になる箇所をほんの短時間、廻らせていただくにとどまりました。
思案にふけるのにうってつけの“哲学の椅子”(石造りの腰掛け)も、境内には配置されて、なかなかユーモア溢れるお寺です。次回は是非ゆっくりと境内を巡りつつ、しばしこの世についてわたくしなりに考えてみたいと思っております。
本日は、金堂にての御仏よりの御言葉をお伝えいたします。
Rinokia
***
「人間界における、幾多の現象を見ゆる(=見る)さなかにあって、そなたは一体“何”を、真心(=心の中核)に据(す)えるかーーー
俗に、“物事は捉(とら)え方次第”と人は言うなれど(安易に言うけれども)、事実(=本当に)それほど難き(難しい)ものはない。
物事が起きれば、あるいは、人と遇(あ)えば、様々な想い(※ここでは感情も含みます。)が心を去来する。
その巡る想い(あるいは感情)の、吹雪くかのごとく視界不透明のなか、果たして、突き詰める先(=心の矛先(ほこさき))は何に向けていくべきだろうか。
例えば、“恋愛” ―――
愛を想うがゆえに、対象の者(=恋する相手)との成就を願うか。
あるいは、“愛”を自らにもてる(=愛する想いを抱けることでの)、その充足(幸福な気持ち)を、何より見い出すか。
幸福という、誠に虚(うつ)ろなる感覚、しかしながら、ここにもっと寄与するは、自らの真心に何を据えるかである。ゆえに幸福は、いよいよ(=年々)人により、まさに岐路(=分かれ道)を辿るとも申せよう。
現実界(=現象界)の、“満たされる”、あるいは“満たされぬ”と、さもありげに論じる(声高(こわだか)に叫ぶ)、その浅はかさよ。
あたかも自らの幸福を、他の様相(状況・良し悪し)にて定まるがごとくの責(=責任)を逃れるばかりの者が、今いかに多きことか。
自らの幸福は、(他の)誰しもが叶えるものではない。
自らが請け負う、幸不幸の責(=責任)ーーー
それであるなら、人は、定めし自らの真心(=心に一番据えるもの)にて、幸せにも、あるいは不幸せにもなると、もはや誰しも会得せねば(しっかりと理解しなければ)なるまい。
自らを、真っ当に(=迷わず明確に)幸福へと導ける者は、真に強し。
その真摯なる姿こそは、すでに“愛”そのものである。」
(次回②へ続きます。)
***
※応援して下さる方は、下の2箇所のクリックをしていただけますと、大変励みになります。
■精神世界ランキング
■人気ブログランキング
※ご質問はコメント欄へお寄せください。
内容を拝見し、お答えが可能なものに関しては、順次ブログにて回答を掲載させていただきます。
***
Source: 神々からのメッセージ
コメント