神の詩 第二章第十三節
「この肉体に宿る者(霊魂・個我)は少年期・青年期・老年期をこの肉体で過ごした後、
他の肉体に移る。賢者はこれに惑わされない。(十三)」
輪廻転生を簡潔に表現しています。
ある賢者が
この世界はサムサーラであるといいました。
サムサーラは
サンスクリット語で
輪、輪廻
を意味します。
サムサーラは、
輪から解脱できた人が
外からその様子を見て初めて
それが
輪であると気付くものです。
人々は
輪のように
この世界に輪廻転生を繰り返します。
それを
輪の中にいる人たちは
疑問に思うことなく過ごし、
輪から抜け出ることは
困難を極めます。
輪の中にいる人たちは
疑問に思うことなく過ごし、
輪から抜け出ることは
困難を極めます。
賢者がこれに惑わされないとは、
賢者は
輪廻転生の輪から卒業していることを意味します。
人は、
地上でさまざまな経験を積めるように、
特定の肉体に宿り、
学びの期間を終了したら、
その後に再び新しい肉体へ入ります。
地上でさまざまな経験を積めるように、
特定の肉体に宿り、
学びの期間を終了したら、
その後に再び新しい肉体へ入ります。
学びは、
肉体から肉体へ、
そして
地球から別の惑星へと
魂の霊性の高さに相応しい場を選んで、
経験を重ねていきます。
ここで大切な点は、
それを自覚していれば、
人生は有意義な過ごし方が出来ますが、
それを自覚していれば、
人生は有意義な過ごし方が出来ますが、
何も知らずにただ生きていれば、
人生は苦痛を拡大するものになってしまう
ということです。
それは、
目的地を明確に定めて旅を楽しむか、
目的地を知らずにあてもなく道を迷い続けるか
の差があります。
目的地を明確に定めて旅を楽しむか、
目的地を知らずにあてもなく道を迷い続けるか
の差があります。
「バガヴァッド・ギーター」を読み始めた人は、
確実に
人生が有意義なものへと変容していきます。
確実に
人生が有意義なものへと変容していきます。
それは
真我という目的地が明確になるからであり、
さらに
その最適な「道」を示した地図が伝授されるからです。
道とは、
ミ(御)
チ(智慧)
です。
ミ(御)
チ(智慧)
です。
神、
すなわち真我が示された生き方であり、
ギーターを読んで、
理解し、
実践することは、
日本では
「神ながらの道」
とも称されます。
続きます。
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日本には輪廻転生を示唆する言い回しがたくさんありますので、日本人には受け入れやすい考え方だと思います。
例えば、「袖触れ合うも多生の縁」ということわざがあります。この「多生」とは、何度も繰り返し生まれてきた過去生のことを示しています。今生において、道で通りがかりに袖を刷り合う程度の関係であったとしても、数えきれないほどの生まれ変わりの中で、時に友人で会ったり、時に家族で会ったり、共に仕事をしていた仲間だったかもしれません。日本では、何度も生まれ変わってくるという輪廻転生を誰もが日常的に信じているために、自然と使われている言葉の一つです。
人が生まれた時点で、王家に生まれたり、最貧のスラム街に生まれたり、健康であったり、病弱であったり、人生が順調満帆であったり、人生が苦悩に満ちたものであったり、生まれてすぐに死んでしまう人もいれば、百年を超えて長生きする人もいます。
それでも神が完璧なまでに公明正大であるということは、輪廻転生による魂に刻まれたカルマ無しには考えられないことです。今、私たちが置かれている状況や環境、身体は、完璧な因果律に従って、魂の学びに最もふさわしい状態に置かれています。
それを理解するだけでも、人生は大きく良い方向へと変えることができます。
キリスト教では長い間輪廻は否定されていましたが、聖書の中にはいまだその真理が残されています。
「あなたがたに言っておく。エリヤはすでにきたのだ。しかし人々は彼を認めず、自分かってに彼をあしらった。人の子もまた、そのように彼らから苦しみを受けることになろう。
そのとき、弟子たちは、イエスがバプテスマのヨハネのことを言われたのだと悟った。」マタイによる福音書17-12-13
これはイエスがエリヤの魂がヨハネに転生したことを指摘しています。
「物質的な肉体は、春夏秋冬の移り変わりのように、成長し、成熟し、衰えていく。その核にある真我が永遠不滅の存在として在る。」
「魂は不滅であり、肉体は輪廻転生によって再生される。」
「自分は肉体だけの存在ではない。」
今の世界では、「生」と「死」という言葉が、物質世界における長い歴史の中で狭い視野で限定された観念を作り上げてしまい、真の意味での理解が成されていないという問題があります。
本来、物質界における「死」は霊界における「生」なのですが、物質界の観点からしか見ることが出来ない場合には、この現象を絶対的な死と勘違いしてしまうのです。
文字で表現すれば、物質界に生まれてくることは学ぶためにこの世に入ってきた「入学」であり、死は業(カルマ)を修了した「卒業」という言葉で表した方が適切なようです。学校を卒業すると、もうその学校には戻らずに、新しい生活を始めます。人生でも、一度死んでから戻ってくることはないので、お堅い校則の無い新しい生活がよほど快適なのではないでしょうか。
多くの臨死体験経験者は、再び重い肉体に戻ってくることが苦痛に感じると述べていますし、死をこの世の終わりではなく、卒業と捉えることが多いそうです。優秀な成績で卒業するかどうかは本人次第ですが。
「死」という言葉から「卒業」という言葉に代えるだけでも、多くの人々の中に定着した固定観念から外れて、より視野の広い観方に変わっていくように思います。実際に卒業した後は、新しい世界へ行くのですから。「葬式」も「卒業式」に変えるだけで、遺族も癒され、新しい世界へと旅立つ本人もより心が軽くなることと思います。
仏教には「成住壊空」という言葉があります。
一つの世界が成り立ち、安定して維持し(住)、やがて壊れていき、空に再び戻っていく(空)。人も物質も、感情のような物質界で作られた目に見えないものも、この法則に則っています。
また禅の言葉に「日面仏、月面仏」という逸話が「碧巖録」に収録されています。
ある時、ある禅僧が重度の病にかかり、療養していました。そこへ知人がお見舞いに来ました。「具合はいかがでしょうか。早く良くなってください。」と知人は言います。
禅僧は、こう答えます。「日面仏、月面仏」。
日面仏とは、千八百歳まで生きた仏様です。
月面仏とは、一日で亡くなってしまった仏様です。
この禅僧は、「人それぞれ寿命があり、長生きする者もいれば、短い命の物もいる。それは天の計らいであり、自分の意志で決められるものではない。自分に出来ることは生死を超えて、いつでも心穏やかに静謐でいること。」と伝えたかったのです。
死は、すべての終わりではなく、次のステージに移行するための卒業にすぎないということを理解することによって、唯物論的な思想は取り払われ、一つの人生を超えた大きく広い視野を持って、崇高な目的のために心静かに物事を遂行できる下地が作られます。
「一つの人生とは何か?それは、夜にまたたく蛍の光の輝きであり、真冬のバッファローの白い一息であり、夕暮れの草陰にほんのわずかな時間現れては消えていく小さな影だ。」北米先住民ブラックフット族の言葉
「クンティの子(アルジュナ)よ、感覚がその対象に触れると、寒暑や苦楽の感情が生まれる。この感情は現れたり消えたりして、長くは続かない。これに耐えよ、アルジュナ。(十四)」
「アルジュナよ、これらの感情に苦しまず、苦痛と快楽を淡々と受け入れて動揺しない者は、不死に値する。(十五)」
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Source: ひかたま(光の魂たち)
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