神の詩 第二章第二十九節

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神の詩 第二章第二十九節

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「真我を驚くべきものとして見る者がいる。驚くべきものとして語る者もいる。不思議なものとして聞く者もいる。それを聞いても全く理解しない者もいる。(二十九)」

物質とは、何でしょう? 

物質とは、
物質化した意識です。

人は、
物質世界での固定観念を
衣服のように常にまとっています。

生まれてまもなくまとうために、
その固定観念から
離れることができなくなります。

そして
真我は
物質領域からは
はるかに超越したところにあります。

だから、
真我に達することができた人間は、
驚くべきものとして見るはずです。

そして
それは
言葉では語ることは出来ません。

なぜなら
言葉をはるかに超えた領域のものだからです。

それを
言葉にして語れば、
制約されたものへと変化してしまいます。

そして
それを見たことが無い人が聞けば、
不思議なもの
というイメージが湧いてきます。

また
関心が無い人にとっては、
理解することすら出来ません。

これらは

人の頭で考えるイメージを
遥かに超えたものであることを示しています。

果物を見たことのない世界の人に、
言葉で「りんご」を正確に語って
りんごのすべてを理解してもらうことは出来ません。

森の中で一生暮らすアフリカの部族の狩人を
生まれて初めて
大平原に連れてきた科学者の記録が残されています。

最初に
大平原の遥か遠くに水牛の群れがいましたが、
科学者が
狩人に
「あれは何だ?」
と尋ねると、
狩人は
「蟻」
と答えたのです。

今まで生きてきて、
遠くを見ることが無かったために
空間把握能力が低下していたのです。

私たちは
同じように
物質世界で生まれて育ち、
物質世界の認識が
意識の中で定着してしまっています。

すると
あらゆることを
物質世界の基準で判断してしまおうとするのです。

現在
私たちが持っている最先端科学や学問は、
非常に狭い視野で見れば、
一見すべてがわかるような錯覚に陥りますが、

宇宙全体に内在する無限の叡智からすれば、
砂浜の砂粒1つ程度のささやかなものに喩えられます。

ある量子物理学者は、
私たちが知覚できる領域は
宇宙の実相の数十億分の一程度ではないかと推測しています。

プラトンの記録によると、
彼の師ソクラテスが
「自分が知っていることといえば、自分が何も知らないということだけである。」
と述べたことは
「無智の知」
として有名です。

科学も歴史を見れば、
その時代時代で
常に最先端であると多くの人々は信じていますが、
100年経つと
当時の見解が色あせていることからも、
科学という分野が
発展途上であることがわかると思います。

それゆえ、
極めて限定された視野の範囲だけで、
すべての物事を判断してしまうことは
賢明とはいえません。

現時点では
生体のエネルギーについての理解も
「思い出し始めた」ばかりの状態です。

思い出し始めたというのは、
かつての古い時代には
生命エネルギーについて、
現代よりも深い洞察がなされていた証拠が
数多く存在するからです。

生命エネルギーの詳細が知覚できる人も増えてきましたが、
一般の人に詳細に語っても
理解しがたいことでしょう。

現存するインドの聖者たちが
宇宙の普遍意識について詳細に語っても、
いにしえの聖賢たちが残した多くの聖典の中に詳細に真理が書かれていようと、
顕在意識だけで物事を判断する人がほとんどという現状で、

普通の人に
「真我」を説明することは、
深海で生まれ育った深海魚に向かって
ニューヨークの株式市場のダウについて説明するようなもの
かもしれません。

私たちは、
無益な妄想に時間を費やすよりも、
謙虚に
出来る限りの幅広く正しい視野を持って、
霊性進化の道を歩み続けて
真の実績を積み重ねて理解していくことが
重要だと思います。

次は

「万人の肉体に宿る者は永遠に殺されない。だから、汝は何物についても嘆くべきでは
ない。(三十)」

よく内観してください。

このあたりは、
すでに理解されている部分の繰り返しになります。
それだけ
心に留めておく必要があることになります。

今週は
脱落者がかなり多いので
しばらく休みましょうか。

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Source: ひかたま(光の魂たち)

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