神の詩 第5章八・九節 4

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神の詩 第5章八・九節 4

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「真我に意識を集中した聖者は、見たり、聞いたり、触れたり、嘆いだり、食べたり、動いたり、眠ったり、呼吸したり、話したり、排池したり、つかんだり、目を開閉したりしていても、「私は何もしていない。感覚がその対象に働いているにすぎない。」と考える。(八、九)」

続きです。

花を観たら
花とぴったり合わさる。

つまり
花に逢った時には、
何も頭で考えることなく、
花と自分の深い意識を合わせてみることを表しています。

その花の波動が奏でる美しい旋律を、
純粋にハートで味わってみましょう。

その花に
自分の意識を「合わせて」、
大地の強いエネルギーに根を下ろし、
そよ風を感じ、
太陽光の中でエネルギーをもらい、
美しく楽しく、
ただ
咲いてみる。

こうして
初めて
花を愛でることになるのですが、
真我を見出した後では、
花と真我が、
花と太陽との関係のように
お互いに別々に保たれながら
「合わさる」、

つまり
「打つ」
ことになります。

「花を愛でる」

そこには、
花を見るだけではなく、
愛があります。

だから
「愛でる」
というのです。

それが
対象物の真の価値を引き出します。

続きます。

精解 神の詩 聖典バガヴァッド・ギーター 1
森井 啓二
きれい・ねっと
2021-08-20


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それは花だけに留まることなく、吹き抜ける風の中に、輝く光の中に、流れる水の中に、葉の上を歩く小さな虫に、遠くにそびえる山々に、夜空に煌めく星々にも、美しさと尊さを見出すようになっていきます。
そしてこの意識の姿勢は、日常生活のあらゆる所作に活かすことができます。これが行動の道が大切な理由の一つとなります。

日々の瞑想によって、心を自分の内側に在る真我へと近づけていきます。
それは意識の海の深海へ行くようなものであり、意識の大気層から大気圏外にある太陽へと向かうようなイメージを持っていてもいいかもしれません。
人は、意識を内側に向ける瞑想と共に、意識を外側に向ける行動を行います。この外に向けた行動の際に、瞑想で到達した内側の深い意識を伴っておきます。このような実践を繰り返すことによって、深い意識を保ちながら、外の世界での活動に従事していく状態を発達させていきます。
言い換えれば、瞑想で到達する普遍意識を、瞑想以外の実生活でも保ちながら生活するということになります。
「行動をブラフマンに捧げ、執着を捨てて行動する者は、蓮の葉が水に汚されないように、罪悪に汚されない。(十)」

Source: ひかたま(光の魂たち)

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