あの日、僕は朝から大学の授業に行っていた。
関西で、震災直後から動いていたお京阪。
実家の茨木から普通に大学に行けてしまった。
さすが、商売人の街。電車をすぐ動かすなんて。
だから、あんな被害の中、1限2限の授業があった。
こんなことしてる場合やないんとちゃうかと、
誰からともなく声が上がって、午後からは休校に。
ヒポクラテスの銅像と『慈仁心鏡』の額があった、
大学の一階の学務課前に自治会のクラス役員が、
集まって、被災地支援をどうすべきか、話していた。
すぐそこにあるはずの神戸が、何故か、遠かった。
その後、3年生だった同級生たちは、
いつもの定食屋さんのテレビの前に集まった。
被災地に行こう。ボランティアだ。ってやつと、
こんな時こそ僕らができる勉強をやろう。ってやつとで、
口論にもなったりした。
そのどれが正解か、29年たった今も、わからない。
あれから大きな震災や、想像できなかったコロナ禍苦、
理不尽な研修医同級生の死や、無駄な医療による犠牲者、
予想してなかったワクチン被害の数々、
どうしても肯定できない潜れた医原性安楽死、
自分自身の仕事を否定されていると感じる両親の孤独死、等々。
数え切れないほどの消せない胸の痛みを経験してきた。
その時々で、その難問の本質に立ち向かうのか、それとも、
できる目の前の事だけに最善を尽くすのか、悩みは続く。
そう言えばそんな中、今日はなんと、
奥様のザイタク看取りをご一緒した前田信道キャップと
有馬富士をバックに立ち上げた『路地裏ノルキン部』3周年記念日。
そして、平和な今日も、僕のところには、
患者さんの求めが、アッチにコッチにあって、
僕は医師として往診する機会を失うことなく、
皆さんの為に働くことができて本当に有り難い。
あの日、阪神淡路大震災を経験したけど、僕は未だに、
どうすれば、みんなが幸せになれるか、わからない。だけども、
能登半島地震で苦しまれている皆様、心から応援しています。
ずっと応援しています。きっとまたいつか笑えますように。
僕も、ここで一生懸命に頑張ります。
最期まで信じたい。不器用な愛おしいボンクラを。
間違いばかりの今日をまず愛そう。
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The post 1995年1月17日から始まる胸の痛みは、今もまだ、、、29年。合掌。 first appeared on 三田市の在宅療養支援診療所『たなかホームケアクリニック』.
Source: 兵庫県三田市の在宅療養支援診療所「たなかホームケアクリニック」
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