公に目にする記者会見の裏で、ときに一歩も譲れぬ駆け引きが繰り広げられる外交の世界。その舞台裏が語られる機会は少ない。ピアニスト、ワイン愛好家として知られ、各国に外交官として赴任した大江博・元駐イタリア大使に異色の外交官人生を振り返ってもらった。《1989年から約2年半、在韓日本大使館で勤務した》
ソウルでの勤務は充実していました。欧米など主要国との方針は通常、本省が決め、現地の大使館に意見を求められることはあまりない。しかし韓国の問題では、韓国国内の反応が政策決定に重要な要素となるため、意見を求められることが良くあったのです。
田中均北東アジア課長(後に外務審議官)や、谷野作太郎アジア局長(後に中国大使)から1等書記官の私に「君はどう思う?」と電話が掛かってきた。とてもやりがいを感じました。
大使館では、韓国語に堪能な専門職の館員が内政を担当し、自身は日韓関係を担当した》
在日韓国人3世の法的地位問題▽広島・長崎で被爆した在日韓国人への対応▽第二次大戦後、サハリンに残され無国籍となった朝鮮人への対応ーが主要課題。3点セットと呼ばれました。盧泰愚(ノ・テウ)大統領はこの3つが解決すれば、日韓の過去の問題は終わり、との立場を取っていました。
当時、元慰安婦問題があったとはいえ、両政府の協議対象にはなっていませんでした。協議対象になると、元慰安婦が自身の身元を多くの人々に知られることになり、嫌ったためです。
私が帰国した後、この問題が両国間の大きな問題になりました。〝トカゲの尻尾切り〟ではありませんが、日本国内では韓国大統領の約束にも関わらず、この問題を扱うと、他の問題が次から次へと出てくると懸念する人もいました。「慰安婦問題は両国の歴史に関する最後の問題になるのでは」というのが私の意見でした。その後の歴史を見ると、そうなりませんでしたが…。
《ソウル赴任中、日本に対する韓国人の意識を垣間見た》
韓国はソウル五輪(88年)を成功させて自信を持ち始め、冷戦崩壊に伴い、ロシアや東欧諸国との外交関係も広げていきました。ソウルでは、ソ連の指導者にちなみ「ゴルバチョフ」という名のレストランも登場。韓国国民の意識は確実に、世界に向いていきました。
それまで韓国の世界史の教科書には、日本の記述が3分の1から半分ほどもあった。一方、日本の世界史の教科書で扱う韓国の歴史は数%しかない。この不均衡が、日本への屈折した感情の源にあると思いました。韓国で日本の歌謡曲が表向き禁止対象だったにも関わらず、カラオケ店に行くと、人々が日本の歌ばかり歌うのを見た。若者向けの雑誌の表紙は、日本のどの雑誌をコピーしているか分かるほど瓜二つでした。私が韓国を去るにあたって私物を業者に売った際、「これは日本製です」と言うと、業者は高い価格で買ってくれた。一方、韓国製だと言うと、安くしか売れなかったのです。日本製品への憧れはとても強かったですね。《韓国メディアのあり方には驚かされた》
〝反日〟の記事が新聞に掲載されたとき、執筆した記者に会い、正しい事実関係を説明し理解を得るようにしていました。これは世界中、どの大使館でもしていることです。
ところが韓国では、記者に説明すると、「(事実は)分かっている」という。どの記者と接触しても、同じような反応を見せました。
そうした記事を書いた理由を聞くと、「事実に基づいた記事を書いても、編集長からOKが出ない。編集長がOKしても、記事になった翌日、世論の袋叩きになる」と言うのです。〝作られた反日〟があることを知りました。
また、高齢の韓国人より、偏った教科書を通じてしか日本を知らない若い人たちの方が、反日意識の強い割合が多いと感じました。
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Source: 身体軸ラボ シーズン2
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