禅宗なんかはこの神秘体験を非常に忌避しており、座禅の最中に仏に会ったらすかさずその仏を突き殺せとまで教える。
ちょっと辛い状況下に自分を追い込み、その結果脳内麻薬によって幻覚を見るなら、それは修行したことになるどころか、ヤク中ってことになっちゃうんですよね。
— すぽんちゅ@仏教は最高の教え (@Iwatekko6969) September 24, 2024
さて、、当方の2013.5.3の記事。
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■歩く禅■禅って別に胡坐して瞑想してってやんないと出来ないものではなく、、
日常の中にある。昔、禅僧で「まかない係」の坊主が、、
※典座(てんぞ)だったかと、、
台所で禅僧たちの食事を作っていたら、、
光り輝く観音様が現れて、、、「○○よ」と名前を呼んできた、、
そしたら、その坊主、、
鍋のお玉でその観音を叩いて追っ払ったらしい(笑)
「邪魔やボケェ!神さんでもどつくぞ!」と、、
まぁ、、
お玉で鍋を混ぜている時でよかったです。
観音も命拾いしたものです。
もしも、包丁で大根を切っているときに「観音」が出てきたら、、
観音は包丁でザクザクに叩かれて血だらけになって帰ることになったかと、、思います。要は、集中するってそんなものなんです。
そこに宇宙がある。
歩くことも同じで、、
それは歩くことだけでなく、日常生活全般にもある。
そこを忘れて、、
何か旅行して瞑想したり、、
脱サラして瞑想しても、、、仕方の無いこと。
そんな瞑想で生を実感してもハリボテです。
普段の日常の喧騒の中に集中した「静」の空間を持つ。
ただ歩いているだけですけど、、
その動の中に静も併せ持って、、
身体を感じ取ってセンターウォークしてみてください。音楽を聴きながらランニングマシーンとか、、
身体意識って部分で見ると、、意味がないと、、思いますね。取り敢えずこの辺で。
==============================※このエントリー自体は更に数年前の私の別ブログの焼き直しです
禅とか公案とか、、「一生修行(自慰)」の坊主に何を問う? ってことで、、公案と座禅と、、それで一生って、、
アホです。
そんなの、、あってもなくても世の中は進んでいく。
※ですが、、そこは「趣味」の世界なんで、、
ゲーマー同様、「趣味没頭」は等しく与えられた権利でもある。※修行(自慰)していない禅坊主はただの葬式仏教か観光仏教です。
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Source: 身体軸ラボ シーズン2
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