熱田神宮⑨最終回 上知我麻(かみちかま)神社【人類の燈火(ともしび)となる覚悟】

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前回の別宮八剣宮と同じエリアにあるお社(やしろ)の一つが、上知我麻(かみちかま)神社です。上があれば“下”もありまして、本宮向かって左方の境内脇には、下知我麻(しもちかま)神社があるそうです。こちらは“旅行安全”の信仰が伝わるお社です。

一方の上知我麻神社は、御祭神が乎止與命(おとよのみこと)で、“知恵の文殊さま”とも呼ばれ、命名・学業成就について篤い信仰を集めます。

ちょうど両脇には、大国主社(おおくにぬししゃ)と事代主社(ことしろぬししゃ)が配され、毎年1月5日には、“初えびす”のお祭りが盛大に催されるということで、熱田神宮の年末年始の参拝客の多さは容易に想像ができます。

“三人寄れば文殊の知恵”というように、今の時代こそ、多くの人の知恵を結集して、長引く世界的な難局を乗り越えてまいりたいと願います。

Rinokia


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「生きることの厳しさーーー 今まさに、その真の姿(=内実)を、狼煙(のろし)のごとく彼方(かなた)より、世界はにわかに立ち昇らせた。

これまで民の生活成らしむる(生活を形作っていた)物事が、滞り、欠き(不足し)、さらに、生きる“基”(=生活の基本・根本)が日ごと揺るがされている。


生きるうえでの(実際の生活における)欠かせぬ物事は、幾重にもこの世(社会)を取り巻く。しかしながら今や、そなたは一枚一枚、その身の皮を剥(は)がされるがごとく、日ごと感ずる底知れぬ焦燥感なかで・・・(そなたは)一体何を思うだろうか。

世の中を見渡せば、人は、あらゆる行動をとる。誠に奇怪なる“うねり”(潮流※人々の動向)を示す。

それは究極、“良し悪し”という安易な規範(基準)ではなく、“有事”(=甚大な出来事)が起きた際の、人間たるものに備わる感性、感情、あるいは元よりの欲は複雑に撚り合い(=密接に関係し)、薪(まき)をくべるかのごとく、それらの行動を益々(大きく)“焚きつける”であろう。

民は、もはや知らねばならない。

人が生きることの、真の“厳しさ”を。

この地上には、いまだ日々を安寧に生きることの易からぬ(=困難な)場(地域)は有りて、しかしながら往々にして、人は安易な、単一なる(単純な)生き方を求め、そして知らぬうちに、それらが“然り(しかり=当然)”との念を深め、いつしか“慢心(おごる心)”へと陥っていく。

物事の流れーーー “仕組み”ともいうべきか、構造ともいうべきか、この世はすべて“理(ことわり=順序・筋道)”のままに、すべての存在は動きゆく。

身近な物事の、ついにはいずれかへ行き着く(※ここでは、ある結果が導かれる、ということです。)ことへの人の思考の欠如は、この世の崩壊を呼ぶ。

見渡せば(周り・世の中を見れば)、これまでも数え切れぬほどの、“教え”(教訓・気づき)はもたらされ、それらを、そならたは真に自らの血肉とすることが(=身に生かすこと)ができただろうか?

それは何もかも、天よりの“警鐘”ーーー 世はけして安易ならず(=厳しく)、人は常に自らに備わる知(知力)と体(体力)、それらの生きる力を結集してこそ生きるべき存在であることを、そなたらは、すでに幾重にも得る痛みともに、再びわが身に呼び起こさねばならぬ。

ーーー そなたよ。

人類の歩みはけして易からざる(安易ではない)。

人はまた、これよりの(この先生きる)多くの同胞(人々)のため、その身を投じていくものである。

それが、連綿と続きゆく魂たちの“絆”であり、これまでいかなる苦難ありてもなお生き延びた人類の奇跡。

ーーー 神は苦悶し、弥栄(いやさか:益々栄えること)を願うすべての魂の成りゆき(行く末・その先におこなわれる審判)の極なる(※ここでは極端な結果という意味です。)を見るにつけ、ただただ慟哭(どうこく:声をあげて激しく嘆き泣くこと)する。


われら(神々)の愛しきそなたよ。

今や、そなたは、人類総じての“生きる”を導く燈火(ともしび)とならんがため(=なるために)・・・・自らの“命”を
赤々と投じる(燃やす)覚悟はあるか?」

以上。

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Source: 神々からのメッセージ

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