甲斐の浅間神社の境内には、多数の境内社があります。
これまで浅間神社は、時間の都合などでほぼ本殿のみでのお参りでしたが、先頃は、時間を少しゆっくり取り、境内をひとまわりすることができました。
鳥居から進んで、向かって左(西方向)に本殿および拝殿があります。ちょうど“回れ左”をして参拝するようなイメージです。
拝殿を過ぎますと、護国社や七社、さらには干支にちなんだ石像などが並び立ち、そのほか成就石や富士石など、立派に造られた石の一群がありますので、お時間がありましたら是非そちらにも行かれてみてくださいませ。
本日は、護国社でいただきました御言葉をお伝えいたします。
(護国社は昭和40年代の建立で、浅間神社のある一宮町の、かつて戦争によって亡くなった英霊458柱を祀っていらっしゃるそうです。)
Rinokia
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「人は皆、顔も違えば姿(身体つき)も違い、無論、性格(性質)などもまた人それぞれです。
生まれてよりの成長の変化は留まるところを知らず、なおかつ、生身である以上は、非常に未知数(未知なる存在)であるとも申せましょう。
ただ一人を見るにつけても、その内実(背景)は様々にあり、ときにつかみどころがなかったり、あるいは、掘り下げてもなお見いだされる(発見される)多彩な人となり(人柄)です。
そういった、すべての人が、互いに異にする(異なる)部分をたずさえ、日々を生きていく場が、まさに“この世”(=人間界)であり、ゆえに人は、互いに支え合い、多様に関わり合い、己の役割を果たしてまいるのです。
人は幾重にも要素を持ち合わせているだけに、非常に“軟体な”存在です。
では、この、軟体たる存在ゆえに、物事は軟体(※ここでは、各自の思うように、気ままに行う、という意味です。)のごとく成すべきかーーー けしてその通りではありません。
物事にはやはり道理があり、そして社会の仕組みとして、あるいは、社会を形成する人材として“成さねばならぬ”ことが必ずやあります。
これは、自分がどうであるとか、これでは嫌だとか、そういう視点(観点)ではなく、むしろ、自身を取り巻く家族、地域、ひいては日本や世界のなかで、自らがどうあるべきか、という広義(大きな括り)からの、在り方(行動)を、時により(場合によっては)果敢に求めていかねばならぬのです。
人は、エネルギーとしては、まさに“円”を描きます。これは、“丸”と言い換えても良いでしょう。
ですが、この世にての、自らやるべきこと(使命・役割)は、その規範ではなく、むしろ“四角の箱”の意気(心構え)であるべきです。
何をわれわれは言いたいか。
自ら任された(しなければならない)物事ならば、緩み(取りこぼし・余白)の無いよう、あたかも“四角”のように、きっちりやりきらねばなりません。
不用意な緩み(※ここでは、やるべきことを怠った様子を指します。)は、いつかは不都合が現れます。あるいは、それを補うには、様々な労(苦労)が要ることでしょう。
ですが、各々の力(能力)は、“次”にこそ生かされるべきで、その(過去の)緩みを補う(補填)することではありません。
厳しき言い方かもしれませんが、世代を(次へ)繋げるとは、こうした弛(たゆ)まぬおこないがあってこそ、まるで(その四角の箱を)きっちり積み上げていくように、物事は進展していくのです。
自分の領分(役目)が“四角の箱”と思ったならば、あなたがたは、どれほど、その領分(範囲)に、自らの心血を注ぐことができるかーーー
その問いを、われわれは次世代のあなたがたへ、真に投げかけたい(問いたい)のです。」
(次回③へ続きます。)
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