四萬部寺の本堂のなかに入りますと、左奥に“おたすけ観音”が祀られております。
わたくし自身、おたすけ“地蔵”は、比較的よく目にしていたのですが、このお寺では観音様ということで一層興味がわきました。
堂内に入ったのも今回がはじめてで、落ち着いた朱塗りの内装を見つつゆっくりとお参りすることができました。
人は困難がありますと、少なからず今の状況から救われたいと願います。本当に食べるのにも着るものにも事欠くという時代であれば、きっと多くの人々が観音様の慈愛の御姿に救いを求めたのではないでしょうか。
今回は、“助ける”ことの本当の意味についておたすけ観音へお伺いしております。
どうぞご一読いただけますと幸いに存じます。
Rinokia
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「“おたすけ”と、わたくしの名にはそう冠されております。
“助け”があれば、当然、助けられる側が存在する、ということです。
ですがわたくしは、単に“おたすけをする”ために、この世に現わされているのではありません。
そもそも、あなたがた(人間)は、いずれも様々な立場(年齢・性別・役職等。)にてこの世を成して(=形成して)おります。
自然的あるいは生物的な営みは言うに及ばず、無論、経済的な機能も、けして片面(片方)ではなく互いの(相互の)存在が無くては成り立ちません。
この世は、ほんのひと時の絶え間もなく、めくるめく(=巡る)流動的な世界です。
ですが、ともすれば、あなたがたの思考は、片方(一方)に偏る傾向にあります。
たとえば、強者と弱者。あるいは幸福な者と不幸な者。
苦しさや怒りは、他方を批判(非難)し、ときには攻撃さえしてしまう。
何もかも恵まれない、不幸せである、だからこの状況から救って(助けて)ほしい ―――
人はわずかの望みを託し、今ある苦境から脱することを求めます。
“助けるため”にわたくしがいるのではない、と先ほど述べましたが、果たしてどのような意味でしょうか。
われら(観音)のような、衆生(人々)に手を差し伸べる、という姿こそは、実のところ、あなたがた人間の世にても、実際の行いとして現わしていくべき姿(=手本)なのです。
ですから、つまるところ(究極的には)、救いを求めるだけの祈りでは誰しも救われません。
“たすけ”は、本来は “他助”と表します。
各々の生きる状況(置かれた環境・立場)は千差万別でもあり、その点では、誰しも一様(=同様)の他助ができるわけではありません。
ですが、助けられるとは、実のところ自身がおこなう“他助”によって、それがやがては巡り巡って、自らを“助ける”ことに繋がっていくのです。
あなたは今、何を、そして誰を“他助る”ことができるでしょうか?
ひいては、あなたのただその存在のみでも人を他助ているのです。あなたの存在によって、人は生きていく力(勇気)を得ることもある。あなたが生きているからこそ頑張れるのです。
ですから、誰一人として、命をけして無為(無駄)にしてはなりません。なにがあろうとも自らの意義(=存在意義)を信じ、諦めず地道に日々を生きていただきたい ーーー
もしあなたが、“あぁ、自分は生きていて良いのだ”と、心より(心底素直に)思えたならば、この世はすでに、あなたによって助けられた(=救われた)も同然です。」
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Source: 神々からのメッセージ
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