どうも、ヨウ-P(@s_y_prince)ことYO-PRINCEです!
いろんな切り口からカイゴのヒントをお届けしています!
今回の記事は「介護×音楽」でお送りします。
取り上げる曲は平井堅の「キミはともだち」。
2004/5/19にリリースされたシングルで、友情をテーマにしたとても優しい曲です。
今回は、この曲の主人公を認知症の人に置き換えて、認知症の人との関わり方を考えていきたいと思います。
この曲の「ともだち」のような感覚で認知症の人の世界に入り込めば、認知症ケアもうまくいくかもしれませんよ!
認知症の人にとっての「映し鏡」になる【ミラーリング】
皆様は「ともだち」と聞いて、どんな存在を浮かべますか?
平井堅が歌う「キミはともだち」のような関係だとすれば、なかなか「ともだち」と言える存在っていないかもしれませんね(^^;)
とりあえず、聴いてみてください👇
いかがでしょうか??
「ともだち」の定義って人によって違うと思いますが、この曲のような関係の「ともだち」がいれば人生において救われる場面はたくさんあるだろうなと感じます。
さて早速、この曲の主人公を認知症の人と置き換えて歌詞を紐解いていきましょう!
まずは冒頭部分です。
君が笑った 僕もつられて笑った
映し鏡みたいだ 君はぼくのともだち※「キミはともだち」(作詞:平井堅)より抜粋
認知症になったら現れる症状の一つに「見当識障害」があります。
見当識障害というのは、「時間・場所・人が分からなくなる」というもの。
人が分からなくなると、息子の顔を見ても息子と認識できなかったり、息子の名前を聞いても誰のことか分からなかったりします。
ということは、会う人会う人が毎回知らない誰かだということもありえるわけです。
そんななかでも、認知症の人は知らない誰かとともに笑ってくれることがあります。
それはきっと、「映し鏡」のような存在がそこにあるからだと思うのです。
君が笑えばつられて笑って、ぼくが笑えば笑ってくれるような存在。
君が泣いてた 僕も泣きそうになった
だけどこらえて笑った 元気出せよと笑った※「キミはともだち」(作詞:平井堅)より抜粋
泣きたいときは一緒に泣きそうになってくれるような「映し鏡」のような存在です。
私たちは、認知症の人と関わるとき、こうした「映し鏡」のような存在となり関わっています。
これは、心理学において「ミラーリング」というもので、この曲にあるような「ともだち」の関係であれば、それは無意識に行っているものかもしれません。
なぜ無意識に「ミラーリング」が行えるかというと、相手のことを大切に思う気持ちがあるからなんでしょうね。
介護の仕事をしている人のなかには、認知症の人のことを大切に思い、無意識に「ミラーリング」をしている人もいます。
あくまで仕事として介護と向き合う人でも意識すれば「ミラーリング」はできるので、認知症の人と「ともだち」のような関係を築いていくことも可能です。
意識的であれ無意識的であれ、「ミラーリング」をしていれば、認知症の人は、見当識障害で相手が誰か分からなくとも、「映し鏡」のような相手に安心を感じてくれます。
そうすれば、きっと「ともだち」のような関係が築いていけるはずです。
「ともだち」のような関係が築けたとき、認知症の人はあなたの顔を見てこう言ってくれるはずです。
あ、あんたか?
あなたの顔や声に、きっと安心感を覚えておられるのだと思います。
うまく話を聞いてあげよう【あいづち】
僕がさびしいときは あとすこしつきあって
うまく話を聞いてくれないか
君の声だけが心を軽くする
ただあいづちを打ってくれるだけで
はなれていてもずっと胸の中にいるよ※「キミはともだち」(作詞:平井堅)より抜粋
認知症の人がさびしいとき、私たちはまず話を聞こうとします。
さびしいときに限らず、何か不安を感じているときや怒っているときに話を聞きます。
そのときに大事なことが「うまく話を聞く」ことです。
介護の仕事をしていると、この「うまく話を聞く」スキルがあがっていくんですよね!
前述の「ミラーリング」も使いながら「うまく話を聞く」ことができると、認知症の人の心が軽くなっていく様が手に取るように分かるときがあります。
そのなかで、私たちが自然としているスキルの一つが、この曲で何度も出てくる「あいづち」なんです。
「あいづち」については、こちらの本がとても分かりやすいのでご紹介します👇
この本の中で、相槌の基本として「相槌のさしすせそ」が紹介されています。
さ:さすが(承認欲求が最も満たせる相槌)
し:実力ですね(成功者と友人になれる相槌)/知らなかった(相手に優越感を与える相槌)
す:すごい(相手の気持ちを高揚させる相槌)
せ:絶対(是認欲求を満たす相槌)/センスがいい(相手に強く響く相槌)
そ:そうです、その通りです(人間関係の基盤をつくる相槌)/それで(相手を勇気づける促進の相槌)
※「超・相槌 心理学の権威が教える人生が劇的に変わるコミュニケーション」/文響社/齊藤勇より引用
どれも簡単に使える言葉ばかりですよね(^^)
皆様も、きっと使っていると思います!
「うまく話を聞く」ためには、「あいづち」を打つだけでもいいんです。
それだけで、認知症の人の胸のなかにいる「ともだち」のようになれるんです。
認知症の人は、さびしくなったときに何かを求め歩き始めることがありますよね。
何かを求め歩いている認知症の人に、こんなことを言われたことはありませんか?
あんた、おったんか!
きっと「あなた」という安心を求めて歩いておられたのでしょう!
認知症の人と喧嘩していいの??
「ともだち」なので当然なのですが、こんな歌詞もあります。
君が怒った 僕も負けずに怒った
子どもの喧嘩みたいだ 君はぼくのともだち※「キミはともだち」(作詞:平井堅)より抜粋
さすがに介護で怒ったらアカンでしょ…(-_-;)
確かに、介護現場で認知症の人を怒るなんてもってのほかです!
ですが…、残念ながら認知症の人を怒っている場面は介護現場でちらほら見かけます。
本来なら認知症の人に「負けずに怒る」なんてことはダメなことなんですが、私はそういうことがあってもいいと思っています。
条件として、認知症の人と対等の関係性を保ちながら「子どもの喧嘩みたい」であるという前提であれば、認知症の人に怒ってしまうことはあってもいいと思うのです。
介護の仕事は、感情労働と言われていますよね。
感情労働とは、感情の抑制や鈍麻、緊張、忍耐などが絶対的に必要な労働のこと。
引用元:感情労働 – Wikipedia
オマエはバカじゃ!
バカ言うほうがバカです!
相手に真剣に向き合うがゆえに感情が抑制しきれないのであれば、「負けずに怒る」のも致し方ないことです。
ただし、このやりとりのように「子どもの喧嘩みたい」であれば…(^^;)
で、その職員さんは上司に謝るのです。
すみません…。
やっちゃいました…。
こうしたケースでは、認知症の人と職員の関係は、その後悪くなったりしないんですよね。
なぜなら、二人の間には「ともだち」のような感情があるからだと思うのです。
認知症の人は「ともだち」がいないと困る!
君がいないと 僕は本当に困る
つまりそういうことだ 君はぼくのともだち※「キミはともだち」(作詞:平井堅)より抜粋
認知症の人は分からないことが多くて困っています。
不安だから安心を求めて困っています。
認知症の人にとって安心できる居場所があるとしたら、この曲にあるような「ともだち」がいる場所です。
私が長年介護をして思うことは、認知症の人にとってその場所が安心できる場所になるかどうかは、そこにいる人次第だということです。
「キミはともだち」の歌詞にあるような関係性があれば、認知症の人は困らずに済みます。
認知症の人は「知っている人」との関係が失われていく世界で生きています。
そんな世界に「ともだち」がいないと、きっと認知症の人は困ります。
つまり、そういうことです。
あなたが認知症の人の「ともだち」になればいいんです。
まとめ
平井堅の「キミはともだち」。
この曲にあるような美しい友情は、現実はなかなかないと思います。
でも、この曲を聴いていると「ともだち」との関係を今一度見つめ直してみようという気持ちになれます。
意識的でも無意識的でも、どちらでもいいので「ミラーリング」と「あいづち」で「ともだち」との関係を深めてみてはいかがでしょうか?
そして、この記事で書いてきたように、この曲のままに認知症ケアをしてみてはいかがでしょうか?
認知症の人の「ともだち」になるような感覚で、少しの時間つきあってみることから始めればいいんです。
バリデーションとかユマニチュードはいったん置いておいて、とりあえずこの曲「キミはともだち」を聴いておけば、きっと認知症ケアの質が高まるはずです!
Source: すべての道は介護に通ず【暮らしかるモダンなブログ】
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