聖典を読む大切さについて
一億を超える書籍が出版されています。
それら膨大な量の本の中に埋もれて、
ほんわずかな数の
真理の書が存在します。
一般的な読者が求めているのは、
本のタイトルが魅力的で、
装丁が美しく、
流行に乗った内容で、
ベストセラー本や有名な人の書いた本かもしれません。
すべての本には特徴があって、
心の琴線に触れるような優れた内容があったり、
生活に応用できる実用性があったり、
人生に彩を添えてくれる内容であったりと、
それぞれ必要な人たちの手元に置かれます。
これらの本とは別に、
毎日生涯に渡り読み込まれ、
子や孫に受け継いで読み継がれるような書が存在しています。
高次の計らいによって導かれ、
または、
知性と理性、そして崇高な識別心を持って、
真理の書を見つけ出し、
読んで、
内観し、
実践することによって、
輪廻転生を超えて魂と共に持っていける叡智と共に
至福を味わうことができます。
人が知識や経験を基に書いたもの。
時空を超越できる聖仙たちによって
究極の境地から神の叡智を直接下ろされたもの。
全く性質の異なるものになります。
輪廻転生の中における人生を快適に過ごすために役立ちます。
聖典は、
輪廻転生から解脱し、
自己をより高い境地へと導いてくれる導きになります。
人生を華やかにする多くの書の他に、
魂に栄養を与えて解脱へと導く真理の書が必要なのです。
欲望を求めることで満ち足りた人生を送ろうとしています。
でも、
世俗的な成功や幸福には、
必ず苦悩を伴います。
世界征服したとしても、
苦悩が消えることはありません。
一時的な喜びの後に、
終わることの無い苦悩が追いかけてきます。
知的な娯楽であっても、
永遠に続く幸福をもたらしてくれることはありません。
それにもかかわらず、
人は外界に幸せを求め続け、
欲望を止めようとはしないのはなぜでしょうか。
外界のあらゆる物を探求します。
外に向かう時には意識的に、
計画的に行動します。
山に登る時でも、
街に出かける時でも、
料理を作る時にでも計画的に行動します。
しかし
自分自身の内的世界に計画的に向かう人は
ほとんどいません。
最も探求する価値の大きく無尽蔵の宝を持った自分自身を後回しにして、
意識を外に向け続けています。
それほどマーヤ(幻想)と呼ばれる物質世界には
誘惑が多いのです。
それに加えて、
内的世界への正しい導きがないことも原因です。
「外界を探求するために多大な時間と労力を費やすよりも、真の自己の探求に尽力する方が良い。」
と明確に記されています。
すべてこれらを超越した超意識への達成によって示されているという事実があるにも関わらず、
多くの人がそれを求めようとしないのはなぜでしょうか。
すべての人には、
あらゆる力と可能性が内在しています。
それをほとんどの人は認識していません。
人は、
無明の中にいながら、
それすらも自覚していないのです。
欲を満たしていくことが
人生の成功と洗脳されているからです。
だから
外界に快楽や幸福を求め、
そのゴールに至福があると勘違いしてしまうのでしょう。
自我を満足させるために人生を費やすのは、
地上に下りてきた本来の目的ではありません。
偽りの世界の中にあっても
真の光を見出して、
自我を超えて魂を磨くために地上に来ているのです。
無明から解脱して真の至福を見出す道が示されています。
聖典もそのうちの一つです。
無明・無智とは、
自分が純粋な魂としての真我を忘れた状態のことをいいます。
低次の自己がさらに間違った知識を上乗せしていき、
結果的に
苦しみを無数に生み出すことになります。
無明と欲望と無明に基づく行為は、
心の三つの結び目とされ、
これが解脱を阻止して人を輪廻転生に縛り付けている原因となっています。
聖典は、
その三つの結び目を解いて輪廻の束縛から人の魂を解放する役割があります。
続きます。
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Source: ひかたま(光の魂たち)
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