“飛不動尊”の「正宝院(しょうぼういん)」から三ノ輪駅の方面へ真っ直ぐ北上しますと、10分以内で浄土宗のお寺「寿永寺(じゅえいじ)」に到着いたします。
到着して驚いたのは、深緑の鉄門が固く閉ざされておりまして、七福神巡りの7社目にしてお参りできずに終わるのか!?と思いきや、脇の扉が自由に開閉できました。
お正月以外は、この鉄門は常に閉ざされているようですので、お参りに行かれた際には是非お気をつけくださいませ。
それでも一見、境内はお宅の敷地のような佇まいですので、恐る恐る入らせていただきまして、真っ先に正面の階段を上り、本殿と思われる扉の前にて静かに祈りました(※お参り当日は開帳されておりませんでした)。
こちらの御本尊は、阿弥陀如来だそうです。
お参り後、七福神のお堂を探してみましたが、まったく見当たらず、その代わりに別の形でありました。
大き口を開けて豪快に笑う布袋尊(ほていそん)が、(お堂のなかではなく)そのまま露天にてお祀りされていて、これまた驚きました。下谷七福神のなかでは唯一の形式です。
手入れの行き届いた境内で、門を入って左の池にはかなりの数の錦鯉がおります。都内のなかでもまた異空間を見つけた気分です。
本日は、寿永寺本堂にての御仏よりの御言葉をお伝えいたします。
Rinokia
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「“みんな揃って救われること”ーーー
これは、(強弱の程度はあっても)皆が心に願っていることかもしれません。
どの命も、高低なく(=等しく)尊くもあり、なおかつ(今世)一度限りの人生は、再び(同じような境遇・シチュエーションで)得られることはけしてありません。
それほど、人もそして物事(状況)も、緻密(ちみつ)に、かつ連綿と引き継がれるその暁(あかつき:結果)の、まさにその者こその人生であるならば、やはり、苦渋に苛(さいな)まれる日々より、未来(希望)を胸にいつも掲げる姿でありたいものです。
しかしながら、この世は誠に不思議な場(空間・世界)でもあり、通り一遍(=みんなが同じ)には立ち行かない(進まない)こともまた事実です。
まるでうねるように、あるいは、渦を巻くように、ほんのひと時でさえ、均(なら)され、静寂を得ることはありません(※ここでは、綺麗な状態で一様(いちよう)に調(ととの)わない、ということです)。
もしその場(状況)の苦しさ(苦難)に人々が埋没していたならば、自ら(=自分)は一体どのように思うでしょう?
焦点(=特に見ていくところ)は、それでも希望の世か、それとも現に(苦難に)埋没する、その有り様(=惨状)でしょうか?
冒頭の“みんな揃って救われる”という誠に殊勝なる感覚は、逆を申せば、現実の状況がたとえ苦難の世である場合には、自らもまた知らぬうちに埋没していく(=同調する)危険性を孕(はら)みます。
皆が救われるためには、先(ま)ずは自らこそが救われなければならぬのです。
ちょうど、絹布の中心を引き上げ、順にふわりと(周囲が)引き上げられていくように、波打つがごとくのこの世は、究極、一様(いちよう:まったく同じ速度・程度)にて、衆生が引き上がる(=救われる)のではなく、一人のその救われる魂が、周囲の魂を、一つ、また一つと連鎖のごとくに救っていくこととなります。
自分が先に救われること、これはけして他を蹴落とす意ではありません。
この世のすべての者が尊く、そして、救われるべき魂であるならば、なにより、救われる姿、希望を胸に益々よりよく生きる姿を、それこそ自らの“命(=使命)”と定め堂々と歩まなくてはならぬのです。
“皆”という観念と、“自分”というそれ(=観念)とを、安易に比較し論じてはなりません。
先に申し上げたように、この世はまるで神業(かみわざ)のごとくに、縁(えにし)と物事が、長らくの時空を超えての因果が関わってこそ成される(=形成される)がゆえ、一括りに捉(とら)え論じることの冒涜(ぼうとく)を、あなたがたは是非心得てください。
一人、勇ましくこの世の苦境にても抜きんでて、光輝くその姿を羨(うらや)み、非難するのであればどこまでも掲げ(=応援し)ていくことです。
そしてその者が、人生を賭して心血注ぎ、衆生を救うべく創り成す“階(きざはし=階段)”を人々が順に昇れるよう、あなたがたも常に“天”(=明るい希望)へ向け、自らも救われる、その心の準備をしておきなさい。」
以上。
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Source: 神々からのメッセージ
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