yo na dvesti na kanksati 憎しみも望みもない者

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yo na dvesti na kanksati
憎しみも望みもない者

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もうここで
改めて教えることはないくらい
素晴しいコメントばかりです。

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聖典は一つの言葉に
さまざまな意味を持たせます。

さらに
音霊にも深い意味を持たせます。

日本の国歌「君が代」と同じです。

ここでは、
憎しみも望みもない者
という表現から学んでいきましょう。

第一段階では
一つの言葉で多くを表す
ということを学びます。

yo na dvesti na kanksati
憎しみも望みもない者

yo (yah)~の人
na 決して~ではない
devesti  憎しむ
kanksati 望む

この一節だけを見ても
綺麗に韻を踏み
美しい詩になっています。

韻を踏むことにはいくつかの理由があります。

ここではその前に
まず
この語句の意味を解説する必要があります。
意味がわからなければ
韻の意味も無くなるからです。

憎しみも望みもない者とは、

この瞬間に
心に一点の汚れもなく
すべてが満たされている状態に在る
ことを意味しています。

人は、
憎しみを抱くと、
次にそれを消そうとします。

そして
消す方法を模索します。

でも、
憎しみとは何でしょうか?

それは過去の心理的記憶に基づくものであり、
今ここに存在していないものになります。

存在していないものを消すことは出来ないし、
それで将来を思い煩う意味もありません。

同様に、
望みもこの瞬間に必要でしょうか?
憎しみがこの瞬間に過去を連れてくるように、
望みは未来に対する心理的期待に基づくものであり、
この瞬間の意識に未来を連れてきます。

憎しみの放棄では、過去からの囚われが障壁となります。

そして
願望の放棄では、未来への囚われが障壁となります。

憎しみ→過去
願望→未来

憎しみも望みのどちらも、
現在に過去や未来を持ち込んで比較することであり、
この瞬間を見逃すことに繋がります。

今この瞬間に在るのは、
意識の流れだけ。

足るを知り、
欲や執着を捨てて、
この瞬間を十全に生きていれば、
憎しみも望みも存在していないはずです。

その境地にいる者を、
ここでは確かな行者、
つまり
目覚めている者であると説いています。

神道では中今という表現があります。

過去や未来を憂う思考は、
空に浮かぶ雲のようなものです。

発生しては消えていきます。

多くの思考が重なっていくと、
それらが
本当の空を覆い尽くし、
雲が空の実体であるかのような錯覚を生み出します。

そして、
その架空の実体に
意識が繋がっているかのように
思ってしまうのです。

これが
意識と繋がっているという錯覚が、
束縛を生み出します。

憎しみも望みもない者、
相対を離れた者とは、
過去や未来と言った実体ではないものに囚われない者であり、
大空から雲をすべて取り払った状態となった人のことです。

また
この「憎しみも望みもない」とは、
喜怒哀楽の感情的な揺れからも離れている境地が
表現されています。

喜怒哀楽のうちの
哀れみと怒りからは、
憎しみが生まれます。

喜怒哀楽のうちの
喜びと楽からは、
さらなる願望が生まれます。

哀+怒=憎しみ
喜+楽=願望

憎しみと願望の二つで
人の持つ感情、
喜怒哀楽のすべてを表現しています。

これら感情から離れ、
何事が起っても、
静謐な心を保つことが重要と説きます。

また
同様に
「憎しみも望みもない」には、
顕在意識が作り上げた悪と善という概念
顕在意識が作り上げた闇と光という概念
つまり
二元的な概念
からも離れた状態をも意味しています。

このように
短い言葉の中に
多くの意味が多重に含まれています。

これらの様々な思いが
たった八音一節の中に美しく表現されているのです。

ここまでが
聖典を読み解く第一段階となります。

これを
深く読み解けるようになると
次の段階へと進むことが出来るようになります。

まだ
この言葉には
さらに深い言霊が隠されているのです。

8世紀のシャンカラ大師は、
次のような詩を残しています。

「私は、思考でも知性でもない。記憶でもエゴでもない。聴覚でも味覚でも嗅覚でも視覚でもない。地でも空でも火でも風でもない。私は無限の意識、遍満する純粋な自己である。」ニルバーナ・シャタカム第一節

「私には、好き嫌いはない。欲望も願望もない。高慢や嫉妬もない。富や快楽や法や悟りを追求することもない。私は無限の意識、遍満する純粋な自己である。」ニルバーナ・シャタカム第三節

この
憎しみも望みもない者
の一節では
「放棄」がテーマになっています。

第五章全体は、
放棄のヨーガ
と呼ばれています。

放棄のヨーガとは、
手離すことが完全に至る道となる、
すべての放棄によって成就する
ということになります。

いまだに
世界中の人が
物質世界の魔力にどっぷりと浸かり、
富と権力と性の欲望を追い求め、
囚われています。

社会でも
それらを目標とする教育が行われ、
人生の成功だとか目的だと
洗脳されています。

そこに
尽きることの無い欲望と終わりの無い苦しみが生み出されることは
誰も気に留めていないかのようです。

これら世俗的な泥沼に夢中になる生活を放棄することから、
霊的な道が始まります。

外面的および内面的な放棄なくしては、
霊性進化は成り立ちません。

嫌いなものだけ放棄するのは
いとも簡単なこと。

でもそれでは何の解決にはなりません。

嫌いなものへの放棄は、
放棄ではなく
無執着を装った冷淡な嫌忌だからです。

それは、
低次の利己主義以外の何物でもありません。

嫌いなものも
好きなものも
放棄することにより、
あらゆる執着と欲望からの解放が起こり
霊的進化が始まります。


憎しみは、嫌いなものですし、
望みは、好きなものでしょう。

だから、
憎しみも 望みも
なのです。

この放棄については
第五章で詳しく語っていきましょう。

さて
この一節の八音で観られるように
ギーター全般に使われている美しい韻を踏む詩は、
読み手の意識に定着しやすく、
また
聖典の節は
それを正確に唱える人の生体の波動にも
良い影響を与えるよう導きがあります。

日本には
日本の国歌「君が代」や
俳句や短歌がありますので、
短い言葉に多くの心を込めることが
得意ですね。

バガヴァッド・ギーターは

読み進めていくうちに
言霊に隠されたさまざまな波動が
感じ取れるような仕組みになっています。

それは
山を登っていて
あるところまでくると
突然
ぱっと視界が広がり
美しい光景が目の前に現れるのに似ています。

さらに
この聖典では
読み終えた後にも
驚くべき秘密が
隠されているのです。

それが
地球上最高峰の書
と呼ばれる所以です。

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Source: ひかたま(光の魂たち)

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