神の詩 第三章第十~十二節4

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神の詩 第三章第十節 4

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「アルジュナよ、
はじめに、ブラジャーパティ(創造神)は祭祀とともに人類を創造して言った。「これ(祭祀)によって繁殖せよ。これが汝等の願いをかなえる乳牛(カーマドゥク)であらんことを。」(十)」
「これによって神々を慈しめ。そうすれば、神々も汝等を慈しむだろう。互いを慈しんでいれば、汝等は最高の幸せを得るだろう。(十一)」
「祭祀によって慈しみを受けた神々は、汝等が望む喜びを授けるだろう。神々を供養しないで神々の恩恵を受ける者は、盗賊に他ならない。(十二)」

続きです。
ヤグニャとは、
犠牲
という意味があります。

ヤグニャは、
自分の時間とエネルギーと意識を
神に捧げる行為です。

その中でも
最高の犠牲は、
自我を犠牲にすること
とされています。

ヴェーダには、
さまざまな神々に向けた、
さまざまなヤグニャの行い方が記載されています。

ただし、
究極的にはすべてのヤグニャは、
創造主へ向けたものになります。

太陽は光と暖かさとエネルギーを、
川は水、花は蜜と香りを、
皆に平等に分けてくれます。

あらゆる創造物が
ヤグニャを行い、
お互いに
恩恵を受けています。

私たち人間も、
ハートを愛で満たせば、
思いやり、優しさ、癒しなど、
分け合うものがたくさんあります。

地球にいるのは
奪い合うためではなく、
分け合うことを学ぶためなのですから。

ヤグニャは、
低次の自己の視点から見れば
犠牲として理解されていますが、
高次の視点から見れば、
至福であり
愛である
ことがわかります。

ヤグニャを行うことによって、
少しずつ
意識は
クリアになっていき、
それと共に自由度は拡がり、
最終的には
至高の境地に到達すると言われています。

「これ(祭祀)によって繁殖せよ。」

人間が創造された時の神の御心に従って、
生きることを示しています。

そこには
分離意識も利己的な欲望もありません。

人の神聖さを中心にすることです。

自我と神我を同時に選ぶことは出来ません。
どちらかを選択することになります。

「これによって神々を慈しめ。」
神々。
神々は、
神話の中では人格化されているものの、
人の姿で現れるわけではありません。

神のエネルギーは、
大自然の営みの中に、
光として、
星として、
風として、
雨として、
人として、
あらゆる創造物として
表現されています。

特別な仏像や人の作った御神体を慈しむのではなく、
すべての創造物を慈しむこと。

それをするためには、
低次の欲望から離れて、
心を静謐にする必要があります。

神々を慈しめとは、
自分の周囲に存在する対象物すべてに
慈しみの心を持つことです。

生き物の宝庫アマゾン熱帯雨林は、
遠く離れたサハラ砂漠の砂によって維持されていることが
科学的に証明されています。

一見
何の関係もなさそうでも、
大きな目で見ると
すべての存在はお互いに分かち合い、
支え合い存在しているのです。

そのような自然界の恩恵を
知れば知るほど
感謝の気持ちが湧いてきます。

続きます。

精解 神の詩 聖典バガヴァッド・ギーター 2
森井 啓二
きれい・ねっと
2021-08-20


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Source: ひかたま(光の魂たち)

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