神の詩 第三章十三節 2

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神の詩 第三章十三節

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「祭祀のお下がりを食べる善人は、すべての罪から解放される。しかし、自分達のためだけに料理を作る悪人は、罪を食べる。(十三)」

この神から授かる食べ物、
神からの恩寵は
すべて、
「プラサード」
と呼ばれています。

プラサードは、
いつでも私たちに与えられていて、
それを受け取るかどうかは
私たちの意識の在り方と行動次第になります。

受け取る前には、
自ら神に捧げる行為が必要です。

食事と行いを正すことは、
邪悪な性質を遠ざけるために必要なことになります。

聖書にも供物の比喩が出てきます。

「あなたがたは、宮仕えをしている人たちは宮から下がる物を食べ、祭壇に奉仕している人たちは祭壇の供え物の分け前にあずかることを、知らないのか。」コリント人への第一の手紙9-13

ここで私たちは、
食べ物についての重要性も
意識しておかなければなりません。
バガヴァッド・ギーターでは、
体を「クシェートラ:土地」
に喩えています。

土地を
聖地にするのも穢れ地にするのも
本人次第になります。

聖地にするためには、
思い・言葉・行いを正すことが
必須となりますが、

さらに
正しい食事が要求されます。

私たちの肉体は、
食べたものによって作られています。
その肉体は、
この地上に置いて至高の境地を達成するために
いつでも清浄に保たなければならないものです。

肉体を真我が宿る神殿だとしたら、
食事は礼拝のようなものになります。

ヴェーダによると、
人の身体は五つの鞘で覆われたアートマである
と説明されています。

その五つとは、
食物(アンナマヤ・コーシャ)、
生命エネルギー(プラーナ・コーシャ)、
心(マノマヤ・コーシャ)、
知性(ヴィグニューナマヤ・コーシャ)、
至福(アーナンダマヤ・コーシャ)
です。

このうち知性と至福は、
生物の中では
人だけが保有するものになります。

食事は、
心身を清浄に保つためには大切なものとなります。

ヴェーダには、
良質の食べ物を摂取することが、
感覚器官の制御や心身の浄化に繋がり、
解脱への道を整えると示されています。

食事が病気の要因となりうるのは、
食事の量、
規則正しい食生活と食事内容、
食事の時の心的態度
が重要な要素になります。

サイ・ババ大師は、
食べ物についても多くのことを語っています。

「食事の大部分は粗大なもので出来ていて、それらは排泄物となります。わずかな精妙な部分は、体内に吸収されて身体を造る材料となります。そして、極微量のさらに精妙な部分は心を造る材料となります。従って、心と身体は自分が食べたものに反映されます。」

「私たちの心の中にある動物的・邪悪な傾向は自分が摂取した食べ物に起因するものです。」

聖書にも書かれています。

「あなたがもし食をたしなむ者であるならば、あなたののどに刀をあてよ。」箴言23:2

「酒にふけり、肉をむさぼる者と交わってはならない。」箴言23:20
マタイによる福音書15章11節に
「口にはいる物は人を汚さない。しかし、口から出るものが人を汚すのだ。」

マタイによる福音書12章36節には
「あなたがたに言うが、審判の日には、人はその語る無益な言葉に対して、言い開きをしなければならないであろう。」と書かれています。

禅においては、
禅僧が食事の前に唱える食事訓として
「五観の偈(ごかんのげ)」
というものがあります。

五観の偈
一、計功多少量彼来処(目の前に食事が置かれるたびに、それに関わった人の働きや食材となるため命を捧げたすべての生き物に心から感謝します。)
一、付己徳行全缺応供(この食事を戴くに値する行いをしているかしっかりと内省します。)
一、防心離過貪等為宗(食事を前にして、貪るなどの乱れた心を持たないように心がけます。)
一、正事良薬為療形枯(この食事によって体を養い活かすための良薬として戴きます。)
一、為成道業応受此食(人の崇高な目的を成就するためにこの食事を戴きます。)
これは難しい言葉で表現されていますが、
よりわかりやすい現代の言葉使いにして心を込めて唱えるか、
心の中でいつも思い出しながら
「いただきます。」
という言葉に思いを凝縮したり、
噛むたびに感謝の気持ちを入れて食事を戴くと
よりよい「医食同源」「薬食同源」となると思います。

続きます。

神理の扉 聖なる変容と霊性進化の道
光田秀&森井啓二
きれい・ねっと
2020-04-12


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Source: ひかたま(光の魂たち)

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