只管打坐なんてものはない

過去ログ
2020年01月10日
禅で迷走して悟りを得たとか言うエセ坊主、、

私は私の無限大の仕事をすることで、私の無限大の心を満たします。

こんなことを言い出す。

何かを得るため、満たすために「座った」らしい(笑)
禅の只管打坐って、、

ただ座るだけで、、

何も求めないのが、、つまり禅です。

何も求めないし、何も握らない。

それが禅の只管打坐。

過去ログでこんなこと書きましたが、、

そもそも禅宗って、「大悟」を目標においていた時点で、、

それは只管打坐ではない。

まぁつまり、、

ただ座るだけと言いながら、特定の形態を取って何かをするのに目的が無い訳はなく、、

只管打坐というものは無いということです。

過去ログ2019年06月04日の記事

動中静
DATE: 03/26/2014 16:36:29

座禅は手段に非ず、ってのが座禅の基本で、、
座禅を瞑想に置き換えても同じです。
動中禅ってのも、、
別に禅宗の「業者(ビジネス者)」の坐禅だけではないのですね。
武道なら普通にある世界ですし、、
心身一如という解釈も色々ですけど、、
自分をクリアにしないと相手は観えなくなる。
クリアにするというのはゼロになること。
そうすることで視界は広くなる。
中心の一点に定まったフリーな無重力脱力の姿勢があり、、
脳もリラックスする。
だから合気道は、「我即宇宙」と言った訳ですし、、
それが解ってくると、、
普段からゼロと中心だけの無意識が増えてくる。
常に、そういう自分に置くようになるわけです。
別に道場で坐禅を組む必要もない。
瞑想する必要もない。
立禅だとかも無い。
動中に中心の定まった静がある。

我即宇宙=動中静の状態。

武道なら、その状態そのまま稽古に入ります。
座るときはただ座るだけ、只管打坐。
動くときはただ動くだけ、、それも只管打坐。
案外市井の方ほど、、
その境地に入っている方も多いのではないかと思いますけどね。

で、、
「市井の方は心の中をのぞいてみるとどんなに平静を装っていても色々な感情が渦巻いている」と勝手に定義する禅坊主もいてる。

へー、、と、、
要は自分は雑念だらけだと、、(笑)
それを周りも同じだろう、、と思い込んでいるワケです。
そして、、
これは、「ヒトは罪人です」と最初に定義して論を説くキリスト教徒同じ、、
みんなそうなんだと、、と決めつける。
「アンタらはネガティブなんだよ」「だから●●をやると救われます」って説く、、
突き落として、引き上げる、、
「刷り込みの洗脳手法」と同じなんですね。
その辺りに、、説法する坊主のベースがとってもネガティブな霊界であることを示しているのではないかと、、思います。
ボーカンして眺めればそういう事が観えてくる。
ボーカンするクセをつけて、ややこしい洗脳者の跋扈するこの世を坦々と歩いていきましょう。

取り敢えずこの辺で。
※この記事はシーズン1の加筆再掲です。

まぁ、只管打坐なんて言葉も忘れてしまいましょう。

道元さんサヨウナラ。
取り敢えずこの辺で。
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Source: 身体軸ラボ シーズン2

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