「死産かどうか判断が難しいケース」の経験。死産届か、死亡届か。

今回は、センシティブな内容を取り扱います。

ウクライナのマリウポリ産科小児科病院がロシアに空爆され、母児が死亡したというニュースを読みました。
ロシア軍のウクライナ産科病院爆撃で胎児を殺された絶望の母親も死亡

記事内では「帝王切開で救命を試みたが、胎児は死亡」とありました。
別の記事では、「死産だった」という記載もありました。

今回は、死産と死亡について思うところ書きます。

流産と死産の定義

流産も死産も「お腹の中ですでに亡くなった赤ちゃんを出産すること」である点は同じです。
母の妊娠週数によって、流産か死産かを使い分けます。

日本産婦人科学会の定義では「妊娠22週未満を流産、22週以降を死産」となります。
ただし、妊娠12週以降の流産では、「死産の届け出に関する規定(昭和21年厚生省令第42号)」にしたがって、死産証書を発行しなければなりません。

死亡した胎児を含む子宮内容が妊娠12週以降に娩出され、かつ妊娠12週未満に一度も胎児の死亡が確認されていない場合は、娩出された胎児が妊娠12週以降に相当すると担当医が判断した場合に限り死産証書を発行する。

産婦人科 診療ガイドライン ―産科編 2020

後述しますが、上記の定義にはあいまいな点があるため、学術的には「死産とは1分後と5分後のアプガースコアが0、直接観察により生命徴候なし」という定義を用いる場合もあります。(たとえばJAMA. 2011; 306: 2459-68.も同様の定義)

死産かどうか判断が難しいケース

妊娠22週以降で、お腹の中ですでに亡くなった赤ちゃんを出産することを死産といいます。
これは、一見明確に見えますが、死産かどうか判断が難しいケースがあります。

たとえば、常位胎盤早期剝離や子宮内感染症などで、妊娠22週以降のお腹の中の赤ちゃんの命に重大な危険が訪れたとします。
この場合、赤ちゃんの命を救うために、緊急帝王切開がなされます。
残念なことに、出産された赤ちゃんの生命徴候が一切なかった場合、これはの時点での死亡と判断するのか判断が難しいのです。

お腹の中ですでに死亡していたと判断するのなら、死産になります。
いっぽうで、出産時にはまだ死亡しているとは確定できず、懸命に新生児蘇生(人工呼吸、胸骨圧迫、アドレナリン投与)をして、赤ちゃんの救命を試みたのであれば、死亡確認は出産から数分~数十分経過しているです。
この場合、赤ちゃんは死産とならず、出生後の死亡と考えることもできます。

これは、「赤ちゃんの死亡はお腹の中だったのか、外だったのか」という判断が、立ち会った医師の判断に委ねられているために起こり得ます。

「総合的に考えて、出産時にはすでに亡くなっていた」と判断する医師もいるでしょう。

いっぽうで、「出産後も救命できる可能性を信じて、我々は全力を尽くした。結果的に救命できなかったが、出産時にすでに死亡していたとは思っていない。あのとき赤ちゃんは、まだ死にたくないと頑張っていた。死亡と判断した時刻は、蘇生を終了し、死亡確認をした瞬間だ」と判断する医師もいるでしょう。

学術的に用いられる「死産とは1分後と5分後のアプガースコアが0、直接観察により生命徴候なし」という定義を用いると、ある程度クリアにこの問題は解決します。
仮に人工呼吸、胸骨圧迫、アドレナリン投与を組み合わせ、赤ちゃんを全力で蘇生しようと試みたものの、治療反応がなく、生後10分で死亡と判断し、蘇生を終了した場合であっても、「1分後と5分後のアプガースコアが0、直接観察により生命徴候はありませんでしたので、死産と判断します」といえます。

私の経験

NICUでの経験は3年程度しかない私ですが、出生届と死亡届を同時に書いた経験は2回あります。

いずれの症例も、児心音の急速な低下で緊急帝王切開となったものの、結果的には「1分後と5分後のアプガースコアが0、直接観察により生命徴候なし」というケースでした。

私は、この産声をあげられなかった赤ちゃんに、出生届を出すためには名前をつける必要があること、出生届を出せば戸籍に残ることを、泣き崩れる父親に説明しました。
これでよかったのか、私にはまだ分かりません。
絶望の中にいる家族に、さらに絶望を上塗りするような行為だったかもしれません。

それでも、私は立ち会った医師としての判断で、最終的にこれらのケースに関しては「死産とはしない」と決めました。
この判断には、家族の希望も含まれました。
名前をつけて、戸籍にも入れてあげたいという家族の希望が含まれました。

現行の死産の定義には、あいまいな点があります。
医学は科学であり、科学にはあいまいな点がないほうがいいという考え方もできます。
学術的な定義を導入し、死産か死亡かをクリアに分けるべきだという考え方もあるでしょう。
ですが、あいまいだからこそ、ケースバイケースに対応できる柔軟さがあるのではないかとも思っています。

子どもの死への対応はセンシティブであり、私の中でではまだ答えが出ません。

Source: 笑顔が好き。

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