当事者では決してない。まして、医者という立場。
圧倒的優位であることを常に自覚しなければいけない。
これが医師としての自分の中心にある学びである。
昔、大学院で医療統計学を学んでいた頃、
患者と医者の間にある、この埋めようのない隔たりを、
常に意識できるように、徹底的に教わった。
社会人になるまでは、母にこの世は差別のない社会だと、
大切に大切に育てられたのだが、、、、
初めて、この世の中の、差別や区別を叩き込まれた。
母の死に関連して、相続問題の終りが見えない状況に。
その根底にあるのは、この当事者ということに対する意識の隔たり。
母は最期まで、家で、暮らしたかった。
父や弟は、介護が要るなら、施設に入るよう母に言っていた。
兄は、病気でも家で暮らしたいと願う母の本当の思いを知りたかった。
パーキンソン病という病気において、介護が要るようになった時、
母や父や弟が、母の介護状態そのものに目を瞑っていたのなら、、、
結果は、ご存知の通り歴然としている、、、、、
その当事者の置かれる状況を、
決して理解できることはないが
理解しようと努力を続けることは大切だ。
もし、これを放棄し、目先のことに走ったなら、
そこには、尊厳なんって、これっぽっちもなくなる。
母の尊厳を守るために、父にも、弟にも、
そして、もちろん、僕自身にも、非情であろう。
小善は大悪に似たり、大善は非情に似たり。
今、この言葉を噛み締めている。11月8日は母の命日。
2022年11月は、僕の人生を左右する。集中したい。
いつの日か輝くだろう。
今宵の月のように。
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Source: 兵庫県三田市の在宅療養支援診療所「たなかホームケアクリニック」
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