※筆者より【“人は死ぬとどうなるか”へのご質問に対する回答】

その他

昨月1月に、【人は死ぬとどうなるか】と題して10回にわたって、わたくしなりの考えを書かせていただきました。

長らくおこなっております全国での祈りの旅、そして日々の霊視鑑定などを通し(御霊を含めた)様々な方々とお出逢いするなかで得た経験をもとに、様々な想いを込め書きあげたシリーズです。

この記事をお読みくださいました皆様から、思いのほか多くの反響をいただき、コメントなどを一つひとつ拝読しつつ、胸を熱くする次第です。

わたくしたちはこの世での命をいただき、“人間”ならではの感情(価値観)を主体として日々物事を捉え、生活しております。

長らく先人たちが培ってきた物事は、いずれも人類の歴史の一端を形作り、それらが脈々と続き醸成された集大成が、現代であり、今のわたくしたちです。

そしてわたくしたちもまた、人としてあるべき姿、人間こその良さや努めていくべき事柄などを、身近な人や、ときに社会へ訴え、次なる世代に“魂のリレー”をつないでいくのです。

以前もお伝えしましたが、霊の世界には、人間とはまた別の次元の決まりごと(=規律)がございます。わたくしたちが、今世の寿命を遂げますと、じきに“霊のしきたり”に則り、物事が進んでまいります。

死後の、いわば人間側からは知り及ぶことのできぬ真相は、少なからず、人々にとってそこはかとない不安として感じられるものでしょう。

霊の世界とのギャップについて、少しでもあちらの世界を理解することでその差を縮め、安心していただくこと、さらには、だからこその、今この人生をより良く生きていただきたいーーー それがわたくしの願いです。

そうとは申しましても、“霊の世界と人間の世界は違うのだ”と、やはり速やかに納得できるものではありませんし、ましてや大切な存在を亡くされた方の悲しみは癒えることはありません。

人の亡くなり方と、その後のあの世へに向かう様子は、本当に様々ということを以前の記事でもお伝えいたしました()。

そのなかでは、“自死”というこの世での突如の別れは、遺されたご家族やまたご当人を知る方々にとっては、なおさらその後も当人の思いを知ることのできない切なさ、そして悲しみを感じ続けるものです。

先頃、このブログをお読みくださる方より、「自死を選んだ人は、もはや大好きな家族の近くにいることさえできないのか」、そして「(当人を知る)周りの人々が祈ることで、当人の魂を癒すことはできないのか」という真摯なご質問を頂戴いたしました。

シリーズ後半(および )の記事で、わたくしの悔恨の出来事を交え、自死を選んだ方の天への召され方を、僭越ながらお伝えいたしました。

現代は、本当に悲しいことに、若年層の自死も多いですし、日本は恵まれた国であるとはいえ、人間関係をはじめとした生きづらさ、あるいは、生活苦による将来への不安から、各々の世代の方が、自ら、死を選択してしまうのかもしれません。

わたくし自身、全国への祈りの旅へと赴く度に、かつて歴史の激動のさなかに自死を選びし御霊と多く対話してまいりましたので、今世、人間側の価値観や良し悪しを理解している一方で、“人間は、自死をするとこのような世界に行くのだ”という実情も、けして綺麗ごとではなく、つくづく思い知ることとなりました。

御先祖様もそうですが、実際には、家族という繋がりは、魂としてもとくに“ご縁が深い”間柄です。

ただし、過去世も必ず出逢っていたということではなく、むしろ、互いに“家族”として形成することで、一層の学びを互いに得ることが望める(期待できる)ため、天上の世界で、事前に互いに話し合った者同士ということで、“約束をしっかりと結ぶ”、これが、“縁が深い”という意味です。

わたくしたち、現世に生きる存在は、時間の経過に沿いつつ“生きる”ことを自分なりに努め、人生を辿ります。

それと同様に、この世を離れた存在も、人間界とは別の時間軸に従い、霊魂として自らの進路を辿っていくのです。

その辿り方が、実際のところ、自死とそうではない場合には異なると思っていただければと存じます。

自死したすべての場合ではございませんが、それを選んだ魂は、霊魂が進む一般的な辿り方とは、また“別の段階”を踏んでまいります。

わたくし自身が、大きな違いと思うのは、亡くなってからのちの、各々が身を置く“空間”が、(自死とそれ以外では)明らかに異なることです。

いずれの霊魂も、人間界に生きた際での自らのおこないを反省懺悔する機会が設けられますが、自死を選んだ方は、その反省の場が(通常とは)別に設けられ、しかもそこで、けして短くはない期間(※人間の感覚からは、途方もないくらいの長さと思っていただければと存じます)、自らの生前のおこないを、己の心もようの変遷と、周囲との関わり合いの様相なども含めじっくり反省してまいります。

自死し、残念ながら完全に命の炎が消えた際には、当の霊魂を独自に迎えにくる霊たちがありますので、当人はその時点で、(通常は)己の“死”を自覚するとともに、それを選んだことによる一連の“定め”(=宿命)をおおよそ理解いたします。

“自死をすると、遺された家族の近くにいられない”というのではなく、実際には、自死であっても、またそれ以外でも、遺された家族の近くに居続けることは叶いません。これは何もかも、人間と同様、霊魂も霊界での自らの“歩み”を進めていかねばならないゆえです。

誠に酷な表現ですが、生前、とても親しかったからや、好ましい感情を抱いていたから、という理由は、霊魂の世界では通用いたしません。

霊の世界では、好きなことも経験の一つ、また嫌いなことも、経験の一つですので、たとえ生前、互いに愛し合っていたとしても、来世再び出逢えるとは限りませんし、逆を申せば、憎み合っていたからといって、絶対に出逢わないという保証はどこにもありません(むしろ、“学び不足”と気づいた当の魂が率先して、神に、(憎んだ)相手と再び来世も逢わせてほしいと懇願することが多いようです)。

人間ならではの感情は、ある意味一切抜きにして(当の御霊も、ほどなくして、感情を抜いた状態が常になります)、天の審判を受けるーーー これが霊の世界の“鉄則”なのです。

無論、遺された家族とも、また、また当人を知る方とも、“意識”は通じます(ただし、やはり自死した方と、そうでない方への意識の通じ方は、少なからず異なります)。

遺された者たちが先立った方のことを“祈る”――― これは、必ず当人の意識体へと通じ、場合によっては、当人は、天の計らいにより、その祈りの光景を、遠くの世界から目の当たりにすることもあるでしょう。当人は、人々の想いを知り、そして、天で交わした約束を果たせなかったことについて、心底、涙を流します。

だからこそ、人生とはけして無駄にしてはならぬのです。日一日と紡がれゆく、縁ある人々との日々はけして取り戻すことはできません。

神は、以前より、折に触れて、わたくしに“祈り”というものの性質と、その威力を諭してくださいました。

それは、“生命ある者として生きる”わたくしたちこそが、“祈る”という、“念”を発することで、時間もまた場所も超えたエネルギーを行き渡らせることができるゆえです。

御先祖様のことに思いを馳せる、かつてこの国に命を懸けた先人たちへ感謝の気持ちをお伝えするーーー そして、今まさに、あの世へと進みゆく御霊たちについて、安らかなることを“祈る”、それらはすべて、しっかりとそれらの御霊へ託されるのです。

それらの祈りは、命絶えて間もない御霊の、あの世への途上であれば、それこそ良き“道標(みちしるべ)”となって、当の御霊が迷いを断ち、果断に進む、何よりの支えとなることでしょう。

そしてさらには、わたくしたちの祈りこそは、あの世にて今や、霊として学びに励む方々が、来世再び神より命が与えられる際に、“今度は是非、このような生き方をしたい”という希望に満ちた“燈火(ともしび)”(=目標)となって、まさに、共に“歩み続ける”のです。

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以上、ご質問への回答ととに、シリーズでお伝えしきれなかったことをさらに加えて書かせていただきました。少しでも皆様のお役に立てましたら幸甚です。

また何かご質問等ございましたら、どうぞ遠慮なくコメント欄などへお寄せくださいませ(以前、鑑定をお受けいただいた方は、当鑑定所のメールアドレス宛てに送っていただいても結構です)。

わたくしが知る限りの霊の世界について、また神の真理につきまして、誠実にお答えさせていただく所存でございます。

Rinokia

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Source: 神々からのメッセージ

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