(祐気取り)埼玉 飯能③【天覧山(てんらんざん)・多峯主山(とうのすやま)】

その他

諏訪八幡神社丹生神社のすぐ近く、市民会館の駐車場は、広場も併設していて様々な目的で利用されているようです。

駐車場は、特別なイベントが無い限り、登山者などにも開放されていて、ここから天覧山、さらには多峯主山に向かう方が多い印象です。

天覧山は標高197m、そして続く多峯主山は標高271mと、比較的気軽に登れる山です。今は登山ブームなのでしょうか、比較的朝早くから、登山用の身支度をされた方が駐車場から次々と出発し、老若男女、思い思いのペースで山を目指しています。

せっかくの機会ですので、わたくしも天覧山と多峯主山の二つを目標に、まずは天覧山より登り始めました。まずは急こう配のアスファルトの坂を上がり、多少登りますと、まもなく頂上へ到着します。

明治天皇がかつて、この天覧山の頂上より軍の演習を視察されたそうですが(※「天覧山」の名前もこの出来事に由来するそうです)、なるほど、ちょうど地上の様子をよく見渡せる高さなのだと思いました。

そして雪化粧した富士山も、そして遥か彼方に見える都心のビル群も、広く眺望が楽しめるのが魅力です。

天覧山の頂上から、次なる多峯主山方面へ向かいますと、いったんは、かなり下にくだるイメージです。ですので、峰を渡り歩くというより、再度、地上から頂上へ向けて登り直すと考えたほうが良いかもしれません。

天覧山もまた多峯主山も、山道の案内板も充実して比較的よく整備されていますので、迷うことなく安心して足を進めることができます。

多峯主山は頂上近くになりますと、急に傾斜が強くなり、ごつごつした岩のような石段を急こう配のまま登り続けなくてはなりません。まさに“登山している”という気持ちになるのではないでしょうか。

目指す頂上は、また天覧山とは標高が異なる分、より一層広い範囲の街並みが眼下に広がります。頂上まで登り切った暁に望める景色は格別です。

ちょうどその日は快晴でしたが、強風のため、寒さが一層身に沁みました。今はとてもお洒落な登山服が多いのですね。見た目もよくて、その上機能性もあるのですから、これも登山をする方々のモチベーションを上げる一因なのだと思いました。

なかには、お湯などを沸かす道具までしっかりと持参し、温かい物を作って召し上がっていらっしゃる方々もいて、いつも最小限の荷物で登山するわたくしには新鮮な光景でした。ほかほかと湯気が立ちのぼるお食事の、なんともおいしそうなこと!

さて、山はまさにすべてが大いなる“意識体”です。神社によっては、本殿に御神体がなく、山全体を神と仰ぐ信仰も根強く残っております。

ですのでわたくし自身も、普段なら神社の拝殿にて、祈りのさなか神と意識を合わせているのですが、山登りの際には、とくにその必要はなく、山にいること自体で様々な啓示を降ろしていただきます。

山が感じる、わたくしたち人間とは一体どのような存在でしょうか。
どうぞご一読くださいませ。

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「神の世界には、“上”も“下”も存在しません。

たとえ異なる息吹(エネルギー)を示していても、究極すべてが一(いつ=一つ)であり、差異という概念とまた別の規範(仕組)になぞらえております。

翻(ひるがえ)って(=一方の)人間の世とは、異なる素質(要素)によって成り立ち、比較、高低など、人々の生活の多くの部分は、この差異より生じる関わり合い、また相反(離別)などによって“定まる”(固定化されていく)とも申せましょう。

違いがあることが人間界の弊害であるなら、神は元より、人をすべて“均一”に成したでしょう。同じ顔、同じ体躯、そして同様の観念(思考)・・・それが泰平(平和)に連なる(繋がる)ことは、差異のあるこの世と比しても(比べてみても)実は程遠いのです。

この地上もまた、まさに何の高低差もなく、のっぺりと均一に、どこまでも続く地平線のままに気候も永久に変わることのない世であれば、それに魅せられる(魅了される)人はいるでしょうか?

ですが、人間を(肉体ではなく)“魂”にて見るに(判断すると)、同じ場(素質)に寄る(寄り集まる)性質があります。

見えない力(エネルギー)とは絶大で、その力に、人間も、そして自然すらも大きく影響を受けているとも申せましょう。

自と他という認識、そして自らの置かれた(他人とは違う)場、これまでに見たことのないほどの異なる(別の)環境ーーーー あなたがたは、いずれの形であっても、その差異(異なる状況)を、視界でも、また肉体の感覚、感性などによって感じ分けることができるのです。

違いがあるほどに、感じ取る量と質は増し、感じ取った当人は、何等かの考察、さらには“意思”をもつことができます。

同質より異質であるほうが、人間(という魂)もより学び、あるいは刺激を受け、研鑽することさえできるのです。

ですので、平たく言うところの、“何の変わり映えのない”日々は、自らを学びや気づきを得たり、または鍛えていくことはやがて難しくなるでしょう。

ゆえこその、“違い”の多種(=沢山)見えるこの世(現象界)は、尊いのです。

山に登るーーー これもまた、日常を離れ、目指すところ(頂上)へ道標を辿りゆく、自らを(山という空間のなかで)静かに見つめていく行為です。

なおかつ、山は、“天”と続く道。ついに(=頂上に)目前に広がるのは、これまでとはまた別世界でもあり、それは言うなれば、別の次元(=立ち位置)に、束の間、自らを投じることのできる、その確たる(確実な)場が、われら(山)であるのでしょう。

高さを変えれば、空気も異なります。風の吹き方も違えば、何より、あなたが普段目にする物事さえも、まったく別の姿と捉えることができる。

そうです、自らの心もち(心模様)を一瞬にして変えることのできる、山とは奇跡の社(やしろ)なのです。

感じる力を強め、そして、物事の偏見(偏った見方)、あるいは固執している自らの姿に気づく、これが、人間の同類の(=同じところに終始してしまう)性質には、時に何より肝要と思っていただければと切に願います。

山に登ることは、程度こそあれども、自らへの“挑戦”でもあるでしょう。

如何(いか)なることあろうとも、今まさに苦渋の真っ只中にあれども、人は歩み続けねばなりません。

苦しくとも登り続ける、足を進め続けるしか、登山も、そして、人生にもありません。

ですが、ついには見たこともない光景が広がり、歩みし行程を労(ねぎら)い、自らの足で到達したことの自信を得るのです。

頂上より眺める光景は、悉く(まるっきり)別世界です。自らの意思で到達した、いわば、生まれ変わるがごとくの自ら成長したあなたの姿を、山も、そして神も祝福することでしょう。」

以上。

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Source: 神々からのメッセージ

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