神の詩第七章5節
精解 神の詩 聖典バガヴァッド・ギーター第八巻より抜粋です。
「これは私の低次のプラクリティである。勇者アルジュナよ、これとは別に、高次のプラクリティがあることを知れ。低次のプラクリティである物質界を利用している生命体は、この高次のプラクリティに属する。(5)」
続きです。
「御座の近く、そのまわりには、四つの獣がいたが、その前にも後にも、一面に目がついていた」(ヨハネの黙示録4:6)
聖書「ヨハネの黙示録」のこの記述は、
まるでSF映画の台本のようです。
まるでSF映画の台本のようです。
「四つの獣」とは、
幻想(マーヤ)としての物質世界を創造するための4つの要因(創造的エネルギー、時間、空間、宇宙原子)を示しています。
幻想(マーヤ)としての物質世界を創造するための4つの要因(創造的エネルギー、時間、空間、宇宙原子)を示しています。
「前にも後ろにも目がついていた」というのは、
意識をこの四つの要因を観る境地に引き上げた時に、
物質世界も霊的世界も含めた宇宙の実相を観ることが出来る、
という意味になります。
意識をこの四つの要因を観る境地に引き上げた時に、
物質世界も霊的世界も含めた宇宙の実相を観ることが出来る、
という意味になります。
「イエスは彼らに言われた、
「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しい物と古い物とを、その蔵から取り出す一家の主人のようなものである」」(マタイによる福音書13:52)
「それだから、天国のことを学んだ学者は、新しい物と古い物とを、その蔵から取り出す一家の主人のようなものである」」(マタイによる福音書13:52)
この喩えは、
天界の叡智を知った者は、
新しい物(天界の知識)と古い物(今までの物質界での知識)のどちらも利用できることを説いています。
天界の叡智を知った者は、
新しい物(天界の知識)と古い物(今までの物質界での知識)のどちらも利用できることを説いています。
低次のプラクリティは、
ある程度まで認識可能な知識(パロークシャ)であり、
高次のプラクリティは、
精妙で顕在意識では捉えることが不可能な知識(アパロークシャ)になります。
ある程度まで認識可能な知識(パロークシャ)であり、
高次のプラクリティは、
精妙で顕在意識では捉えることが不可能な知識(アパロークシャ)になります。
人は霊性を高めていく上で、
この二相の知識が必要となります。
この二相の知識が必要となります。
鳥が大空を飛ぶときに両翼が必要なように、
どちらか一方だけでは成り立たないのです。
どちらか一方だけでは成り立たないのです。
二相の知識が必要なのは、
人が自らの肉体を通して、
神のエネルギーの通路、
祝福の水路となるためです。
人が自らの肉体を通して、
神のエネルギーの通路、
祝福の水路となるためです。
パーロクシャによって、
肉体を良好に維持することが出来ます。
肉体を良好に維持することが出来ます。
アパロークシャによって、
神に繋がる経路を確立することが出来ます。
神に繋がる経路を確立することが出来ます。
これによって、
人間が物質世界に神の純粋な意志を顕現できる準備が整います。
人間が物質世界に神の純粋な意志を顕現できる準備が整います。
鳥が大空から地上に下りてきたように、
一度高次の領域でアパロークシャを獲得すると、
低次の領域の認識が、
今までとは全く違うものに変容します。
一度高次の領域でアパロークシャを獲得すると、
低次の領域の認識が、
今までとは全く違うものに変容します。
そして、
その時はじめて、
低次のプラクリティの真の意味を理解することになります。
その時はじめて、
低次のプラクリティの真の意味を理解することになります。
川の底を這うトンボの幼虫ヤゴが、
生活の場である水の中ばかりを見て、
大空について理解しようとしないように、
低次のプラクリティにいる人は、
高次のプラクリティを理解しようとすることがありません。
生活の場である水の中ばかりを見て、
大空について理解しようとしないように、
低次のプラクリティにいる人は、
高次のプラクリティを理解しようとすることがありません。
でも、
ヤゴはやがて時期が来ると、
水から出て大空へと飛んでいきます。
ヤゴはやがて時期が来ると、
水から出て大空へと飛んでいきます。
その段階にきてはじめて、
空を理解するのです。
空と水の両方を理解したトンボたちは、
やがて水の中に産卵するようになります。
続きます。
Source: ひかたま(光の魂たち)
コメント