「確か、ここにしまっておいたはず...」
先日、探し物をしていた
「!!! この文字...」
引き出しの中から
見覚えのある文字が書かれた封筒が出てきた
「あぁ、母からの手紙だ」
この手紙には、
読み返したくもない言葉の数々が
連ねられている
...というのも、原因は、
私が両親から実家を追い出されたあと
出版したこの体験記にある
原稿自体は、実家にいるときから
書きはじめていた
それが書籍化となったのは、
実家を出てから
この『乳がん体験記』の中には、
ほんの数行ではあるが
佐藤家の家庭の事情の極々一部が
綴られている
母からの手紙は、
そのことに関しての怒りの文面だった
『発刊おめでとうと言いたいところだが、
無性に腹が立つ
自分だけがいい子になるな
自分勝手なことをして
親のせいにするな
「りかちゃん、本出したんだね」と
人に言われても、
「読んで」と勧めることもできないし、
読んだ人は
「こんな家庭だったんだ」と
複雑な気持ちでいると思う
世間様に晒すんだから
もっと考えろ』
という内容
最後の一文には
「ショックでなにも手につかない」
と書かれていた
いや、
『自分だけいい子になるな』って、
それは私が言いたいセリフだ
『こんな家庭だったんだ』と
知られることも、
世間体を気にしているところも、
私から言わせれば、
結局、母のほうが
いい子になりたいだけなのではないか
「りかには悪いことをしたね」
という反省は微塵もなかった
この書籍を出したとき、
「この本を母が手にしたら...」
と、正直怖かった
が、この本を出したことは
私自身があの家を出たことの、
両親への決別でもあった
それに
まだ物心つかない頃からの母の暴力と、
言葉による暴力が
私の中で許せてはいなかった
この手紙を引き出しの奥にみつけたとき、
中を確認する気にはなれなかった
「読んだらまたあの嫌な気持ちが
甦るだけだ」――
そして私は
あの忌まわしい手紙のことを気になりつつも
数日間、放置していた
母が亡くなって、今年で10年になる
「あの手紙、
そろそろ捨てようか...」
と、今日、再び
あの手紙を引っ張り出してきた
中を開けてみると、
私が記憶している文面ではない
「え? 違う! これじゃない」
引き出しをあちこち開け、
探してみた
が、みつからない
「もしかして母が亡くなって数年後、
捨てたのかもしれない」
そう思いながら、しつこく探していると
ようやくみつけた
が、出てきたのは2通
なんとあの家を出てから、
母から3通の手紙が送られてきていたのだ
2通目の手紙は、
あの忌まわしい手紙から1年後のこと
封筒の裏には
『24.10.11』と書かれている
平成24年10月11日に投函したのだろう
10月11日と言えば母の誕生日の翌日
意味深である
『御無沙汰しております。
お変りありませんか。
私事になりますが
甲状腺からの転移が肺に多数あり
旭川医大でのRI治療*も取り込む事ができず
今は経過を見ている状況です。
あと二年間は大丈夫だと
放射線科の○○先生**は軽く言いますが
私にとっては大ショックで
その上風邪をこじらせ
寝たり起きたりの毎日です。
体中に転移が多発すれば
手段は無いと思います。
○○(妹の名前)には未だ言い出せません。
理香はその後大丈夫ですか?
○○先生(放射線科の医師)は
ガンサロンに行ったら・・・・
と言っていたけど
そんな勇気はありません
とりあえずお知らせまで・・・・
母より』
*)母は1回目の手術のあと、
RI治療を受けている
**)私もお世話になった先生
※誤字・脱字も
そのまま掲載しています
※記録のためにも
ここに遺しておこうと思います
正直、あの“忌まわしい手紙”のあとに
これをもらっても
心の中をどう整理していいのかわからなかった
ただ、
「母はやっぱり“自分”なのだろうな」
と思った
結局、私との間にあんなことがあっても、
自分の窮状はわかってほしい...
きつい言い方だが、
「それしかないのだろうな」と...
それでもたった1行、
ほんの一言だけではあるが、
『理香はその後大丈夫ですか?』
との文言があったこと
きっと、
自分が転移をして先がないことで
私への心配も少しは出てきたのだろう
私は、がんサロンへ行っていることは
母には隠していた
なぜなら、がんサロンは
私の居場所だったから
母から離れられる唯一の場所だった
私も“がん患者”としての癒しがほしかった
が、私ががんサロンへ通っていること、
母は気づいていたらしい
実はこの手紙が送られてきたあと、
「いつか母が
がんサロンに来るのではないか...」
と、気が気ではなかった
最後の3通目は、『27.4.9』と、
これも封筒の裏に書かれている
ここにはとっても弱い母がいた
涙なくしては読めない手紙だ
一部抜粋する
『突然お手紙差し上げ失礼いたします。
お元気でお暮しの事と思います。
私事に成りますが
お分かりの様に
甲状腺のガンから肺に転移し
旭川医大での治療も利かず
昨年秋に処方された新薬も
副作用がひどく断念しました。
三月中旬頃体の不調で受診した所
もう治療方もなく
ガンが大きくなるばかりで
いつ何がおこってもしかたないと
告げられました
(延命治療はしないと先生から・・・・
私も同意しました)
受け止めるしかなく
涙が止まりませんでした。
~中 略~
理香子にお願いしたいと思って
手紙書きました。
今すぐとは言いませんが
どこか良いお店で
親子揃って食事でも出来る様に
取り計らってくれたらありがたいです。
よろしくお願い致します。
たまに顔見せて下さい。』
※誤字・脱字も
そのまま掲載しています
※記録のためにも
ここに遺しておこうと思います
この手紙が届いた翌月の5月には
母は一度、緩和ケア病棟に入院している
そのとき医師に余命2か月を告げられた
母には内緒だった
手紙に書かれていた、
『今すぐとは言いません』という
時間はもうなかった
すぐに食事会の準備に取りかかった
そして食事会の2か月後、
母は亡くなった
医師の「余命2か月」の告知通りに...
この手紙を読んで、
当時の記憶が蘇った
死を覚悟すると、
ひとは変わるものだ
やっぱり手紙は捨てずにとっておこう
私が死んだとき、
この手紙を
棺の中に入れてもらおうか――
☆ちなみに、食事会のときのブログ
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Source: りかこの乳がん体験記
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