甲斐 恵林寺(えりんじ)開山堂【悔い無き生き方より、自らの心に恥じぬ生き方を】

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山梨と言えば、戦国時代の武将 武田信玄公が有名です。菱形を四つ組み合わせた“菱紋”が、山梨県に行けば、今なお古い建造物や、あるいは商業的な施設などにも見つけることができます。長らくの信仰の篤さを垣間見るひとときです。

武田家の菩提寺は、甲州市塩山にある“恵林寺”です。境内は、黒門からはじまり、四脚門、三門などが設けられた、真っ直ぐに伸びる参道が特徴です。

そして、その山門をくぐり抜けますと、突き当たりには開山堂があり、さらにその後方には、方丈をはじめ、信玄公の御霊廟などが整然と配されます。

わたくしがちょうどお参りした際には、方丈より後方の敷地へは入ることができなかったため、開山堂の前にて祈らせていただくことにしました。

この御堂には、“中世禅界の巨人”とも称される夢想国師の他、臨済宗妙心寺派の名僧 快川(かいせん)国師、そして快川国師の教えを継ぎ、寺の再建にも尽力した末宗(まっしゅう)禅師の三像が安置されております。

信玄公と言いますと、“風林火山”の幟(のぼり)と、「心頭滅却すれば、火も自ずから涼し」のフレーズが、わたくしとしては真っ先に思い浮かびます。

状況は異なるのですが、小学生の頃、下校時のうだるような炎天下で、この言葉を思い出しては、“一体どうすれば、火さえも<涼しい>と感じることができるのだろう?”と、子供ながらに疑問に思っていたことを今でも時折思い出します。

ですが、このフレーズは、信玄公の没後、その嫡子である勝頼公らとともに、快川(かいせん)国師が織田信長の軍勢を逃れ、恵林寺に隠れた際、放たれた火が迫るさなかにおっしゃった御言葉だったと、今回のお参りではじめて知りました。

ほんの数百年前にては、この甲斐国でも戦(いくさ)があり、今や美しく整備されたこのお寺もその災禍を免れず、国師をはじめとして多くの命が犠牲になったことを考えますと、なにか胸が締め付けられるようです。

ご参考までに、快川国師が戦火の死の間際におっしゃったとされる御言葉を以下に記します:

安禅不必須山水(安禅は必ずしも山水をもちいず)
滅却心頭火自涼(
心頭滅却すれば火も自ずから涼し

本日は、開山堂での御仏の御言葉をお伝えいたします。まるで説法のような御言葉の数々から、何かしらお感じいただけましたら幸いに存じます。

Rinokia

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「人生とは、ほんの“一時(いっとき)”も留まる(止まる)ことを知りません。

一時々々の、もはや後戻りのできぬ日々とは思えども(分かるけれども)、人は、その多くが、“あのとき、あのようにしておけば良かった”と思うことがあるのではないでしょうか。

時を惜しむその思いとは、“悔いる”という想念です。

人の世とは、なかなか思うようにはいかぬもの。

自らの意思(願い・希望)が叶わぬことは、いずれの時代であれ、人である限りは(※ここでは、社会において人が関わり合うことを特に指します。)避けては通れぬ道でもありましょう。

“時”の等しき(=一定の)流れのなかで、自らおこなえることには“限り”がある。

その事実が、この世における理(ことわり:道理)ならば、果たして人はいかに生きていくべきかーーー

まずもって、“時”の概念を変えていくことです。

仏法いうところの“刹那(せつな)”とは、非常に短い時の範囲(単位)を表します。

ほんの短い、いわば一瞬ごとの“重なり”が、この世を作り成す、という考えです。

それでは、この“刹那”において、あなたがたの心はどのようであるかを見てまいりましょう。

人は、平等に“生(=生命)”を与えられます。その事実は変わることはない。

しかしながら、その生(※ここでは生きることの諸々です。)にちなむ“心意気”は、各々の持ちよう(=持ち方次第)とも申せます。

わたくしどもは、あえてこの(あなたがたの)時代に伝えるとするならば、やはり、いつの時代であっても、困難は幾多あり、そのなかでの心が、果たして自らに“恥じぬ”ものであるか、ということを常に念頭に据えて(置いて)いただきたい、ということです。

無論、“恥”の概念もまた、時代によっても異なり、あるいは、恥ということからの社会的な制限(弊害)なども、まったく無いとも言えないでしょう。

しかしながら、大切なのは、自らの、今そのときの想い(考え)とおこない、ひいては自ら発する言葉に、何一つ後ろめたい思いが無いか否かーーーー 自らの真の在り方(=人としてのあるべき姿)を、繰り返し問うていくおこないこそが、まさに“恥じる思いがそこに微塵も無いか”という視点につながります。

恥じぬ生き方とは、ときに無骨(=スマートでない)ともとれるかもしれませんが、しかしながら、そこには颯爽たる“潔さ”があります。

その一瞬、その場で、あなたがたは、一点の恥じる思いなく、今この時を懸命に生きているかーーー

(少し間を置きました。)

これは、いずれの人にも、無論、わたくしどもにとっても、幾年(いくとせ)仏法の真理を極めん(極めよう)と志す者とても、非常に難しい法(生き方)です。

あなたがたの、今まさに生きる時代(=現代)も、人の関わり(=人間関係)は日ごと難解となり、思うままに身動きすることすら難しい世と言わざるを得ません。

なおかつ、何が真実で、真(まこと:正しい)の道であるのかを、堂々と諭し、あるいはそれらを素朴に(=素直に)耳を傾ける世とは言い難いでしょう。

ですが、いつの乱世でありながらも、人はなお(=やはり)、正しき道を歩むことを、けして諦めてはいないのです。

ここにこそ、人たる生命の真骨頂(=真髄)はあり、神も、そして仏もまた、いつの時代でも人を慈(いつく)しむのです。

人は過ちもあり、そして、悔いる思いは、けして尽きることはありません。

そのなかで、今日も歩む、その“一歩”(※おこない、と読み替えていただいても結構です。)において、自らの姿を堂々と天(神仏)に示すことができるか、善心(=良心)そのままに、自らを行動せしめているかーーーー “恥じぬ生き方”は、今の世にあってなお、人々の燈火(目指すところ)となるでしょう。

心と、そして身体(おこない)を、いつでも潔くありなさい。

無論、(恥無き)道は険しく、人は自らの力の無き(至らなさ)を思い、意思の薄弱たること、そして、貫徹ならざることもまた思うにつれ、悲嘆するやもしれません。

されどもここに、人が絶えず歩み続ける(歩みを止めない)意義があるーーー

道はなお、生命ある限り、続くのです。

途方もなき、その刹那(一瞬)の煌(きら)めきこそが、あなたの人生そのものです。

誠(まこと)の(=裏表のない)思い、そして飾らぬ自ら(=ありのままの自分)を表す場が、まさに神や仏の御前であることを、何人(なんぴと:万人)に等しく与えられている。

ゆえに、
(日本)各地に現存する神仏の社(=神社仏閣)は、脈々と古(いにしえ)よりのこの国の歴史を紡ぎ、今なお、あなたがたの暮らしに寄り添っているのです。」

以上。

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Source: 神々からのメッセージ

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