甲斐国一之宮 浅間神社①本殿【問われるのは“平時”の姿】

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甲斐国一之宮 浅間神社は、わたくしが度々お参りする神社の一つです。

以前お参りした際にも、御祭神 木花開耶姫命(このはなさくやひめのみこと)より御言葉を頂戴しましたので、僭越ながらこのブログに書かせていただきました。

先頃再び、木花開耶姫命の御前にて祈り、今後の世と、そしてわたくしたちがもつべき心構えなどを伺いまして、やはり以前と同様、非常に厳かで毅然とした御姿からは、この国の行く末についてある意味での覚悟を、神の側でもお持ちでいらっしゃることを感じました。

木花開耶姫命は、発せられるオーラは美しくもあり、しかしながら“富士山の神”として古来より信仰されているように、非常に壮大な意識を、祈る者へと緩みなく御示しになります。

わたくし自身もまた、この神よりの御言葉は、“肝に銘じる”という表現そのままに、わが身に一心に受け止める心構えで、粛々と対話いたします。

一言ひとこと発せられるごとに、逐一まるで、その理解の程度を確認するかのように、真っ向より強く明確に、そして丁寧に御言葉を発せられる御姿には、まさに国を統(す)べる者の在るべき姿を自ずと現しているようです。

ちょうど2年前(2018年)の7月に、上記記事を更新したことを考えますと、今回再度書かせていただく機会を得たことに、一層感慨深い思いがいたします。

奇(く)しくも、その際は、“平成30年7月豪雨”と名付けられた、全国的に多大な雨の被害がもたらされた時期でもあり、今また、九州を中心に稀に見る急激な豪雨によって、甚大な被害が出ております。

皆様がご無事でお過ごしになられることを願いつつ、被災された地域の皆様の、どうぞ一日も早い復興を心より祈念申し上げます。

Rinokia

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「世(この世)に巡るエネルギーは、今や“疾風(はやて)”のごとく、常ならぬ(=非常の)勢いをもって“現象化”しております。

いずれの民も、心にゆとり(余裕)をもつことさえ叶わず、次から次へと押し寄せる出来事(現象)を前に、一体なにを支えとして日々を過ごすべきか、迷い、(気持ちが)沈むのではないでしょうか。

はたしていつの頃より、わが国は“有事(非常事態)の欠かぬ(=無くならない)日々”となったのでしょうか。

しかしながら、自然界の営みにも“緩急”があるように、この世の物事(出来事)にもまた、浮き沈みや抑揚など、対義的な流れが(順繰りと)巡りゆくものです。

ですから、懇ろに(丁寧に)見分けてくならば、そこには必ずや、幾多の緩急が現わされていることを、自ずと解せる(理解できる)でしょう。

先ほど申し上げた“有事”は、無論、あなたがたの日常に少なからずの影響を及ぼすものであり、ひいては人生の辿り方(行く末)をも変えるほどの威力をもつかもしれません。

ですが、ここでしかと考えていただきたいのは、有事よりむしろ、“無事”の期(期間)の、人々の在り方です。

この“無事”とは、有事を大事(おおごと)が生じた際の様相と据えた場合には、あなたがたは“平生”、あるいは“平時”と捉えるかもしれません。いわば“日常そのものです。

神は、民の人生のあらゆる場(場面・状況)を見ますが、何より、日常のその姿こそを、肝要(大切なもの)とします。

あなたがたは、平生たる時(=日常)にて、一体どれほど自ら“身を正すべき”と心得ているでしょうか。

自らを律する思いは、その程度により、ひいては万事における選択――― 放つべき言葉と、そして振る舞い(行動)について、正しき術(すべ)を指し示すでしょう。

一方の、緩慢なる思い(そして怠惰なおこない)は、緊迫の迫りくるも感ぜられず、選択を誤り多きものへと誘(いざな)うでしょう。

この両者の積み重ねが、ついには、“有事”にての、自らの姿そのものとなるのです。

ですから、人の真剣なる場(=真剣勝負)とは、まさに“平時にあり”と、しかと心得てまいりなさい。

“有事が日常”の時代、あなたがたの日々の姿が、今こそ問われます。」

(次回②へ続きます。)

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Source: 神々からのメッセージ

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