“鬼の首を取ったよう”という言葉があるように、鬼の首を取るということは無敵の存在に対する勝利でもあり、やはり特別感があるのかもしれません。
これが無論、人間でも“首”を取ることは、戦国時代なども含め、わたくしたち日本人の歴史にも少なからず思い意味合いを示しております。
今年4月頃に書かせていただいた記事【戦国武将の心意気】では、各地に残る“首塚”などの史跡にて祈らせていただいた際の、かつて戦国武将として生きた御霊のご様子などをお伝えいたしました。
“首を斬ると、魂の蘇生は叶わない”ーーー
お家(いえ)などの存続をかけた戦いでは、敵(相手)がまた生き返り仕返しなどされようものならたまりません。
ですから、古(いにしえ)よりの先人たちは、徹底した(敵の)滅亡を求め、ついには、この“首を取る”という行為を見い出した(編み出した)のでしょう。現代のわたくしたちには到底想像もつかない厳しき世界観です。
『鬼滅』の設定でも、不死身と言われる鬼でさえ首を斬られると、もはや蘇生できない、いわば、本当の意味での“死”に至らしめる、ということにしたのだと思われます。霊的にもこれは非常に的を得ていますし、その一方、けして軽んじることのできぬ物事を含んでいるなと、映画を鑑賞しつくづく感じました。人が人を裁く(制裁する)、ということの重みです。
映画が上映されて以降、お会いする方々から、“映画を観に行って大丈夫でしょうか?”や、“やっぱり、幽霊はいっぱい集まってくるのでしょうか?”という、不安なお心からのご質問を時折いただきました。
これには、暴力的あるいは残酷なシーンをスクリーンで観ることの心理的な影響と、あるいは、死を連想させる映像はいわゆる“幽霊”を呼び寄せるかも、という不安からいただいたのだと思います。さらには今回の映画のような、鬼をはじめとした得体のしれない存在が、絶え間なく登場することで、幽霊が寄ってくるのがさらに助長されるのでは?という懸念もあるようでした。
このシリーズの①でもわたくしが、『鬼滅』鑑賞を “わが身の実験さながら”と書きましたが、普段こうした場にはわたくし自身は行くことはありませんので、その意味でもあえて(鑑賞することを)試みた次第です。
スクリーンに映し出される影響は、もはや映像や音響だけではないかもしれませんね。
果たして、映画館という一つの空間とそこに集う方々(観覧者)への影響として、『鬼滅』が霊能師の目にはどう映ったのか、次回お伝えいたします。
(次回⑥へ続きます。)
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Source: 神々からのメッセージ
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