神の詩 第一章第一節だけで
ゆっくり解説していると、
まだまだ続いてしまいますので、
ここで〆ます。
聖典を読むとは
丁寧に読むことです。
バガヴァッドギーターは
700節もあります。
後からまとめて
読めるなどと思っていたら、
間違いです。
ほんのわずかでも
毎日聖典と接する時間を
作るべきです。
この地球では、
時間を利用して
「理解」を自分の中で「熟成」させることが出来ます。
それには
一気にまとめて読むのではなく
毎日少しずつ
丁寧に読むことです。
バガヴァッド・ギーターとは
簡単にいうとどういう内容なのでしょう。
さまざまな人がさまざまな解釈を述べています。
「神への合一の道」
とか
「人類の智慧」
とか
「神聖な奉仕の書」
など。
それらはすべてこの聖典の一面だけを表しています。
リンゴを説明する時に、
「赤い」とか「美味しい」とか「木に実る果実」など、
さまざまな説明ができるのと同じことです。
バガヴァッド・ギーターの第一章第一節、
最初の言霊は
「ダルマ」dharma
で始まります。
ダルマは、
サンスクリット語では多様な意味をもつ語です。
法、義務、規範、世界の根本原理・・・など。
仏教では、
仏陀の悟った普遍的真理、真我のことを示すようです。
この聖典バガヴァッド・ギーターでは、
ダルマは
「人間の地上での正しい行い」「なされるべき義務」「真我に沿った行為」
を示しています。
私たちは
何の目的もなく地上に生まれたわけではありません。
人は、
ただ食べて寝て遊ぶだけの存在で地球に来ているのではありません。
それだけであれば、
人として生れなくても
フンコロガシやイノシシでも充分なはずです。
ちなみに、
フンコロガシでさえ、
糞玉を転がす方向を、
太陽や月の光、
そして
月の光の無い夜には天の川銀河の微弱な光を利用して
正確に目的地までの道のりを見つけ出しているのです。
このような小さな生物の営みからでさえも
私たちは学ぶことが多く、
すべての存在を敬わなければならないことが理解できるかと思います。
綺麗に着飾りたいだけであれば、
ニジイロクワガタやインドクジャクなどのように
美しい生き物になれば充分かもしれません。
キラキラしていたいのであれば、
深海のイカやホタルでもよいでしょう。
動物は自然と調和し、
怒りや憎しみによって同胞を犠牲にしたり、
過剰な欲望のために地球を破壊することもありません。
現在の世界情勢やモラルの低下した人々の言動、自然破壊、環境汚染などを見ていると、
人よりも動物の方が
はるかに優れているようにも思えるでしょう。
それでも昨日書いたように
人は
高い理念を持って、
あらゆることを選択する意思を持ち、
自分と世界を変容させる力を有しているのですから
それを最大限に活用すべきです。
歴史的に起こった「マハーバーラタ戦争」は
同族同士の殺し合いであり、
そこに巻き込まれた人々は
悲惨だったはずです。
でも
その戦争を目の当たりに見ていたはずの
聖ヴィヤーサは、
その悲惨な戦争の事実さえも、
永遠の智慧に変容させています。
私たちにも
聖ヴィヤーサと同じ能力が内在されています。
でも
残念ながら
多くの人は
自身を昇華できる能力を内在しながら、
物質界での誘惑に身を任せ、
自らの神性を省みない状態になり、
その能力を活かすことはあまりありませんでした。
人に精神的向上心がなければ、
行っていることは
動物以下になってしまいます。
「人はパンのためのみに生きているのではない。」
(旧約聖書:申命記第八章のモーゼの言葉、新約聖書:マタイ伝第四章のイエスの言葉)
と語っていますが、
これは
人として生まれたのは
物質的な満足だけを目的として生きるのではないという意味です。
人として生れたからには
人生で意義のあるものを手に入れるべく、
崇高な人生の目的に気づかなければなりません。
現代社会での人生の目的は、
物質的に偏重した教育内容のために歪められています。
それは、
人のために加工されたギーの中で
培養されたカウラヴァ兄弟で象徴されています。
いまだに社会的な成功とは、
裕福になって、よい伴侶を見つけて、豪華に幸せに暮らすこと
という風に考えがちです。
でもそれは、
毎日の暮らしの中で
周囲の人や物に愛情を注ぎ、良いことを思い、良いことを行い、正直に生きた「結果」であり、
「目的」ではないのは明らかです。
古今東西、
人は真の幸福を求めて様々な努力と探究を続けてきました。
あらゆる富を蓄えて、権力を得て、名誉を貰い・・・・、
外の世界へ向けて自分の勢力を積極的、時には攻撃的に広げていきます。
でも
この方向性では物質的に何の不自由ない状態になっても、
真の幸福を得た人はいません。
逆に自分の内側の世界へと深く入る努力をし続けた人たちの中には、
釈迦大師やイエス大師に代表されるように、
真の幸福を実現した例は数多く存在します。
どんなに外側の世界が素晴らしくても、
それを認識して知覚し、評価するのは内側の心だけです。
この世界は
自分の内面を写し出す鏡として存在します。
清らかな思い・言葉・行いによって
鏡を綺麗に磨けば磨くほど、
自分の本当の姿がよく見えてくるはずです。
そこに真の幸福があり、
真の人生の目的が見つかります。
人が地上にきて人生を営む真の目的は、
さまざまな人がいろいろな言い方で表現しています。
ヨーガ・スートラを編纂したパタンジャリ大師は、
「人生の目的は至上霊との一致」と記し、
アカシックレコードに到達し、奇跡的な業績を多数残したエドガー・ケイシーは、
さまざまな言い方をしていますが、
「人間の生きる目的は魂を完璧な存在“TheWhole”と調和できるまでに高めることにある」
と述べました。
北米先住民族たちは、
崇高な思想を持つことでも知られていますが、要約すると
「唯一絶対、万物の創造元である大霊が存在し、我々を含む万物はその分霊として存在する。人間が地上に来た目的は、宇宙意識である大霊を各々の魂に顕現することだ。人の役に立つ行いは、霊的成長に役立ち、愛、協調、奉仕、寛容、忍耐を基本とする資質を身につけることができる。」
という考え方です。
人間がこの地上に来た目的がわかれば、
地上にいる間になすべき務め、
すなわち
「ダルマ」は明確になっていきます。
そして、
バガヴァッド・ギーターの原典の最後の第十八章の締めくくりの言葉は、
「私の」mama
です。
この聖典の一番初めの言霊「ダルマ」、
一番最後の言霊「私の」
を合わせると
「私のダルマ」
となります。
つまり、
「私が地上においてなすべき行い」「私の真我」
ということになります。
この聖典を読み解いていく一人一人への
強力なメッセージが浮かび上がってきます。
これがこの聖典の最も大きなテーマであり、
内容をシンプルに的確に表した言葉になっています。
続きます。
明日は
第一章二~三節
サンジャヤ
「さて、王子ドゥルヨーダナは布陣したパーンダヴァ軍を見渡し、軍師のドロ―ナに近づいて、次のように言った。(二)」
「師よ、あなたの有能な弟子であるドルパダの息子(ドリシュタデュムナ)が配置した、このパーンドゥ王の息子達の大軍を見よ。(三)」
よく内観しておいてください。
Source: ひかたま(光の魂たち)
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