神の詩 第一章第二十一~二十二節 1

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神の詩 第一章第二十一から二十二節

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「不動不滅の人(クリシュナ)よ、私の戦車を両軍の聞に止めたまえ。戦おうとしてここに対峠する戦士達を見渡し、誰と戦うべきかを見極めたい。(二十一、二十二)」

アルジュナは、
ここで
クリシュナのことを
不動不滅の人acyuta
と呼びます。

これは
何が起こっても屈服することのない人
という意味があります。

アルジュナ側の軍隊は
小さくても、
不動不滅の人がいる以上は安心である
という気持ちが表れています。

それは
霊性進化の道を歩み始めた人にとって、
真我、神がいつもついていることを信じることが
いかに心強いことかを現わしています。

霊的に目覚め始めたアルジュナは、
自分の心の中を
じっくりと内観する機会を願います。

これは
人の心の中の二元性を見極めることの象徴であり、
また
この世界の二元性の間に立って
よく見極めたいという欲求の象徴でもあります。

日本でも、
よく
「自分の胸に手を当ててよく考えなさい」
という所作があります。

頭で考えるのではなく、
胸に手を当てて考えるとは、
「ハート(心)の中の状態を、手を通して霊眼に持っていき、見極める」
ことを意味しています。

これはアルジュナの行動に近いものになります。

神道の基本にも
「清明正直」
という考え方があります。

それは、
穢れを清らかにし、
暗い部分を明らかにし、
歪んだものを神に向けて
真っすぐに直していくというものです。

それにはまず、
ありのままの自分の内側の姿を見つめていく

という所作から入ります。

禊祓いに先立って、
今の自分の中に、
汚れや歪みがないかを
勇気を持って見ていくのです。

禊祓いの際には、
内面を清めている本質を理解し、
その象徴として
外面を清める所作があることを忘れてはいけません。

神道の場合には、
女性的な表現が使われている一方で、
バガヴァッド・ギーターでは
戦争という舞台の上で
男性的な表現が使われています。

それは
時代的背景として、
戦いという理解しやすい表現を採用しているだけであり、
しっかりと全編を読み通すと、
戦いが本当は戦いではないことに気が付くことと思います。

戦いが存在する世界で育った人は、
戦いの比喩が理解しやすく、
戦いが一万年以上に渡り無かった古代の日本においては
一切対立することなく和を基調とする教えとなり、
全く表現方法が異なります。

がんのイメージ治療でも、
同じ手法が使われています。

女性性の考えが主体の人には、
自分の身体を愛し、
がんを愛するイメージを作ることで、
がんを溶かして消していきます。

一方で、
男性性の考えが主体の人には、
がんを自分の体の中の防衛軍が攻撃して、
弱らせていくイメージを作ることで、
がんを縮小させていきます。

このどちらも成果を上げています。

心の中の戦い、心の浄化では、
敵を明確に把握する必要があります。

でも、
難しいことに、
内側の敵は自分が正しい識別力と知性を持って認識できなければ敵がわからないのです。

人間の内側に潜む真の敵は、
生まれてからずっと共にいるために、
時には敵とみなせないこともあります。

そこをしっかりと見極めなければ、
内なる戦いでの完全勝利は困難になります。

さらに
敵とわかっていても、
恐怖心や悲哀が残っていれば、
意志を委縮させたり、
心を激しく揺れ動かしてしまいます。

だから
聖仙たちは
外の世界を征服するよりも
内なる世界を征服する方が
はるかに難しい
というのです。

私たちの思考は、
振り子のように両極の間を揺れ動いています。

そして
なかなか真ん中で停止することが出来ません。

アルジュナは、
クリシュナに願い、
真ん中で止めてもらいました。

釈迦大師は、
「人が両極の正中に留まることが出来た時に二元性を超えることが可能となる。」
と言いました。

これは
中道として知られています。

すべての二極性のちょうど正中に留まれれば、
揺れ動く思考は安定して止まることを意味します。

釈迦大師は、
中道に留まることは、
人を目覚めさせ、
正しい道を理解させ、
心の静寂を得て、
智慧を得て、
正しい悟りと涅槃のために役立つことを説いています。

でも
アルジュナは、
自分の心が静謐の中で中道に入ったのではありません。

そのため、
正中から両極を見て、
思考は再び揺れ動きだします。

でも
この両極の間に立って、
すべてを俯瞰したことが
これから役に立っていくのです。

また
釈迦大師は、
「妙実智見」
という言葉も残しています。

これは、
自分の偏見や知識を入れずに、
あるがままを見て、
あるがままに知ること、
を意味します。

これは
現在でも仏教における基本となっています。

悟りを開くためには
「妙実智見」が必須であり、
これによって真理を知覚することになります。

まだまだ続きます。

少し休憩しましょうか?

君が代から神が代へ 上巻
森井 啓二
きれい・ねっと
2018-12-18


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Source: ひかたま(光の魂たち)

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