終戦記念の日に向けて【Rinokiaのひとり言】

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76年前の8月には、国中を巻き込む戦禍のなかで、広島と、そして長崎へ原爆が投下されました。

今をもって、世界で日本のみに、この恐るべき爆弾が落とされたという現実は、戦後に生まれたわたくしたちにとっても、けして割り切れるものではございません。

近年は、戦争を体験した方々の高齢化が進み、戦争の惨禍を語り継ぐことの難しさがニューズなどで度々取り沙汰されます。

終戦記念日の時期になりますと、これまでは明るみに出されなかった戦争の事実が明らかになったり、また、体験を語ってくださる方々の御言葉が、一層身に染みてまいります。

後世の人々へ語るのも辛い、けれども、戦争を生きのびた自分が語らなくては、というジレンマは、戦争を体験したご当人でなければけしてわかり得ない苦しみだと思います。

思い返せば、わたくしの祖父たちもまた、生前はほとんど戦争について語りませんでした。

母方の祖父母宅に遊びに行った際には、祖父の両親の他に、まだ10代後半くらいの若い男性の遺影が2つ並んで飾られたのをよく覚えています。

“この人たちは誰?”と尋ねたところ、祖母が、“おじいちゃんの弟たち。特攻隊で亡くなったの”と教えてくれました。
母方の祖父は長男で、その弟たちだそうです。

遺影と並列して、特攻隊で国に命を投じたことを讃える大きな賞状が飾られ、幼心のわたくしには、“人は亡くなると表彰されるのかな”と、いささか不思議に思えました。

精悍な顔立ちの青年たちと、そして、規格外の大きさの賞状とを幾度も見比べました。

祖父は、軍隊には従軍しましたが、書が得意だったため軍の書記官になったそうです。

ですので、実際の戦地には赴かなかったようで、そのために命が助かったと思われます。

いずれは家を継ぐ長男を、せめて戦地の前線に行かせないための、なんらかの配慮があったかもしれません。

いずれにしても、祖父が戦争を終えて生き延びたからこそ、孫である自身が存在するというのは何をおいても感謝ですし、命こそ大切にすべきものとつくづく感じます。

祖父はいつも優しかったのですが、いつも物憂げな表情でした。

楽しいことも楽しみきれない、笑うにも笑いきれない、そういったイメージが強かったです。苦笑い、というのがもっとも当てはまるかもしれません。何か目的があって生きるというより、その日その日を刹那的に淡々と生きておりました。

大切な弟たちが次々と戦地に送られ、二度と戻ってこないその姿を送りだす兄の想いはいかばかりだったでしょうか。“当時を語ることすら憚(はばか)られる”、これが正直な姿だと思います。

余生は、地域活動を幅広くおこない、大好きな野球観戦と、そして書と絵画をたしなんでいた祖父の在りし日の姿を、この季節には毎年鮮明に思い出します。

例年ですと、原爆などで直ちに命を奪われた御霊たちに、祈りを捧げるなかでお話しを伺っておりますが、今年は、終戦を経て生き続け、しばらくののちに昇天した御霊にお話しを伺うことができました。

家族や友を諸共失うほどの、過酷な戦争の真っ只中に生きた方が、戦後目覚ましく変わりゆく時代のなかで、それでも生き続けることはどれほどの重い十字架を背負うことなのか、次回お伝えいたします。

Rinokia

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Source: 神々からのメッセージ

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