(前回① からの続きです。)
“生き残ってしまった”ーーー
お国のために次々と命を投じる朋友たちを後目(しりめ)に、わたくしは、数少ない生き残り兵士となってしまいました。
わたくしの胸に去来したもののなかには、いつ終わるとも知れぬ戦争が終わったことへの安堵(あんど)が無かったとは申しません。
しかしながら、“生き残ってしまった”という観念のほうが、何をおいてももっとも強く自らの心をつんざき、徐々に“現実”(日本の多くが敗戦で焼け野原になってしまった状況のことです。)に引き戻されるうちに、この(生き残ってしまった、という)観念は、わたくしの感情の大半を占めるようになりました。
従軍を終え郷里に戻ったときの迎えのなかには、息子たちを(徴兵され)失った人々も多くいました。それでも気丈に迎え入れてくださるその姿を拝し、わたくしは(無事に帰還して)晴れがましいという気持ちなど、毛頭(=まったく)抱くことはできませんでした。
それからというもの、わたくしは、人の生死を分かつものが一体何なのかを、従軍中に垣間見たあらゆる物事がふと脳裏に浮かぶさなか(※フラッシュバックように突如思い出すのだそうです)、絶えず思いあぐねるようになったのです。
敗戦の惨禍を引きずる、いまだ焼け野原のこの国は、もちろん復興への目覚ましい動きはありましたが、ともすれば、目前の現実には希望ばかりとはいかず、わたくしもついつい悲観的な感情に支配されていたのかもしれません。
身体への負傷も、回復するには場合によっては多くの時間を要する大変甚大な出来事です。
ですが、精神の痛手もまた想像以上に辛く、回復の兆しを見い出すことは難しいものです。実際、この国の人々の多くにこの(精神を病むという)“影”は、日常に深く刻まれていたのではないでしょうか。
人は不思議なもので、(その人にとって)何か重大な出来事が生じると、自らの“価値”ーーー 存在意義というものを考えてまいります。
劣勢に傾く戦局のさなかに自身が従軍し、そして数え切れぬほどの尊い命がついえたのちに敗戦を迎え、戦後の時代を生きる、これを、人生の重大な出来事と言わずして何を言うことができましょうか?
自分の存在意義 ーーー
自分がこの世を生きることに足りる(=適う)人間かを、わたくしはとめどもなく考えました。
戦争には勝者敗者はつきものです。お国のためにと命を捧げることを善徳とする教育は、己のもつ“力”を、この国のために一心に投じることを意味いたします。
その意味では、けして“生き残るための力”とはならないのです。
そして、わたくしは自分なりに一つの結論を導き出しました。
(次回③ へ続きます。)
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Source: 神々からのメッセージ
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