神の詩 第三章第十節
「アルジュナよ、
はじめに、ブラジャーパティ(創造神)は祭祀とともに人類を創造して言った。「これ(祭祀)によって繁殖せよ。これが汝等の願いをかなえる乳牛(カーマドゥク)であらんことを。」(十)」
「これによって神々を慈しめ。そうすれば、神々も汝等を慈しむだろう。互いを慈しんでいれば、汝等は最高の幸せを得るだろう。(十一)」
「祭祀によって慈しみを受けた神々は、汝等が望む喜びを授けるだろう。神々を供養しないで神々の恩恵を受ける者は、盗賊に他ならない。(十二)」
こうして、
牛は、
次第に神聖視されるようになりました。
次第に神聖視されるようになりました。
古代インドの祭儀書である
「シャタパタ・ブラーフマナ」(紀元前6世紀頃)では、
祭祀に
「浄化のために牛糞の塗布」
「人を清めるためにギーを利用」
と記されています。
「シャタパタ・ブラーフマナ」(紀元前6世紀頃)では、
祭祀に
「浄化のために牛糞の塗布」
「人を清めるためにギーを利用」
と記されています。
さらに
律法経「バウダーヤナ・ダルマ・スートラ」(紀元前6-2世紀頃)では、
牛に由来する五つの産物(糞、尿、乳、酸乳、サルビシュ(発酵物))のすべてが
聖なるもので
浄化作用を有する
ことが記載されています。
律法経「バウダーヤナ・ダルマ・スートラ」(紀元前6-2世紀頃)では、
牛に由来する五つの産物(糞、尿、乳、酸乳、サルビシュ(発酵物))のすべてが
聖なるもので
浄化作用を有する
ことが記載されています。
紀元前後の「マヌ法典」にも、
家と土地の浄化には
牛糞を使うことや
牛殺しの罪を犯した人の浄化に牛尿を使うこと
が記されています。
家と土地の浄化には
牛糞を使うことや
牛殺しの罪を犯した人の浄化に牛尿を使うこと
が記されています。
四世紀頃になると
法典「ダルマ・シャーストラ」に
牛殺しは死刑とする
ことが記されています。
法典「ダルマ・シャーストラ」に
牛殺しは死刑とする
ことが記されています。
その後
五世紀頃の聖典「マハーバーラタ」などにより
聖牛崇拝が発展していきます。
五世紀頃の聖典「マハーバーラタ」などにより
聖牛崇拝が発展していきます。
このように、
牛は
人にさまざまな役に立つことから神聖視されましたが、
これは
牛に限らず
あらゆる動植物に対して言えることです。
牛は
人にさまざまな役に立つことから神聖視されましたが、
これは
牛に限らず
あらゆる動植物に対して言えることです。
ヴェーダの考え方では、
牛乳も蜂蜜も果物も穀物も、
すべては
神からの贈り物
として扱われます。
牛乳も蜂蜜も果物も穀物も、
すべては
神からの贈り物
として扱われます。
なぜなら、
どんなに科学が発達しようとも、
人は
これらすべての自然界の恵みを
工場で作り出すことは出来ないからです。
「バイオインスピレーション」
という言葉があります。
という言葉があります。
自然界の生物のもつ優れた機能や形状から
インスピレーションを得て、
工学や医療をはじめ様々な分野に応用することです。
インスピレーションを得て、
工学や医療をはじめ様々な分野に応用することです。
実際に
あらゆる製品が、
さまざまな生物をヒントに作られ、
利用されています。
あらゆる製品が、
さまざまな生物をヒントに作られ、
利用されています。
例えば、
鳥の翼の形をほんの少し真似て、
飛行機の翼に応用しただけで、
石油燃料の消費量が驚く程節約になったのです。
鳥の翼の形をほんの少し真似て、
飛行機の翼に応用しただけで、
石油燃料の消費量が驚く程節約になったのです。
動物は人類の兄弟、
植物は人類の姉妹
ともいえる存在です。
植物は人類の姉妹
ともいえる存在です。
すべて大切な存在であることを
私たちは再認識しなければなりません。
「ブラジャーパティ(創造神)が祭祀とともに人類を創造した」
この部分をエドガー・ケイシーのリーディングからのリーディング情報を踏まえて解説すると、
次のような意味にあります。
次のような意味にあります。
創造神が人間を創造した頃、
人間はもともと神の一部であるために、
万物万象と調和し、
神の属性を忠実に反映していました。
人間はもともと神の一部であるために、
万物万象と調和し、
神の属性を忠実に反映していました。
人の魂は、
最初は霊的次元に留まり、
至福、感謝、愛に溢れ、
神の想念の内に留まっていたといいます。
時間が経るに従い、
自己意識が生まれ、
自分の可能性を外界に向けて表現したい欲求が生まれました。
自己意識が生まれ、
自分の可能性を外界に向けて表現したい欲求が生まれました。
しばらくの間は、
魂の活動は神の創造目的から逸脱することはありませんでしたが、
人の魂が
自分の能力に対する興味が徐々に強まり、
それにつれて
自ら神の意志から逸脱するようになっていきました。
(ここの様子は、「マハーバーラタ」のシャンタヌ王と女神ガンガーとその息子たちの話に象徴的に描かれています。)
創造神は、
創造の波動が末端の粗大な領域にまで低下していった時に、
波動の純粋性が歪んでしまうことを
理解しているのでしょう。
創造の波動が末端の粗大な領域にまで低下していった時に、
波動の純粋性が歪んでしまうことを
理解しているのでしょう。
あらゆるレベルで波動を拡げて、
歪みを純化する行程を
無数に繰り返しているのです。
物質的宇宙で展開される生命現象を
霊的次元から観察していた一部の魂たちは、
この物質世界での現象に
引き寄せられていき、
好奇心旺盛な一群の魂が、
物質次元に降下していきました。
霊的次元から観察していた一部の魂たちは、
この物質世界での現象に
引き寄せられていき、
好奇心旺盛な一群の魂が、
物質次元に降下していきました。
長い間に魂は
人間として物質界で活動する内に神から離れ、
純粋性は歪み、
神性を失っていきました。
神性さを失うと共に、
自分の真我を封印することによって
自由にも制限が課せられていきました。
自分の真我を封印することによって
自由にも制限が課せられていきました。
自分で自分の首を絞めるような行為
になっていたのです。
再び神聖さを取り戻し、
神の御心のままに在れば、
真の自由を取り戻し、
願うことはすべて実現されるのですが、
人の持つ低次の欲望が
それとは逆方向に動くことになります。
(この話の全体像は、バガヴァッド・ギーターの家系図に暗喩として示されています。)
人は
自分の分離感が強くなればなるほどに、
自分の範疇を遥かに超えるものを
認識できなくなります。
分離意識の強い人の顕在意識の中では、
まず
神を自分から分離し、
次に神を否定し、
最終的には神を忘れてしまいます。
自分の分離感が強くなればなるほどに、
自分の範疇を遥かに超えるものを
認識できなくなります。
分離意識の強い人の顕在意識の中では、
まず
神を自分から分離し、
次に神を否定し、
最終的には神を忘れてしまいます。
でも
人が一方的に神を忘れているだけ。
人が一方的に神を忘れているだけ。
神は人に無関心ではないし、
見捨ててもいない。
創造した時と同じように寵愛していることは、
乳牛カーマドゥクによっても象徴されています。
続きます。
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Source: ひかたま(光の魂たち)
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