今月半ばに父親の死から3ヶ月余りが経過し,四十九日と百日法要も無事終わりました.
この間,今に至るまで,死亡届の提出や法要等の準備はもちろんですが,ホームの契約変更や家賃・管理費,医療費,光熱費,各種保険,年金,税金その他諸々の引き落とし口座や名義の変更,家庭裁判所での遺言の検認,亡父の残したいくつかの銀行や証券会社や郵便局の口座の相続手続きや残高証明や出入金記録の取り寄せ,まだ残っている実家の処分等々,種々の手続きに奔走してきました.
ホームに残された超高齢の母にはとてもこれらの膨大な作業は不可能で,弟夫婦と4人で手分けして少しずつ進めてきましたが,実家近くに居をかまえる弟夫婦は空き家になってしまった古い家のメンテナンスも担当してくれ,ありがたい限りです.
今後は実家の処分の手続きが大詰めとなり,株式なども待っていた亡父の準確定申告もせねばならず,当院の経理を担当してくださっている会計事務所の人たちに助けてもらいながら事を進めている最中です.
結局なんだかんだで,ようやく全てが終わってほっとするのは年明け以降になりそうです.
それにしても,今回の件を通じて痛感したのは,ひとりの人間が死亡した後の事後処理というものが,なぜこれほどまでに複雑極まりなく,故人をゆっくり悼む間もないほど時間とエネルギーを費やさざるを得ないような仕組みになっているのか?ということです.
死亡者や相続人や代理人の身分証明,個人情報の秘匿などが厳密になされるのはやむを得ないにしても,やれ戸籍謄本だ抄本だ,住民票だ実印だ印鑑証明だと,あらゆる手続きのたびに同じような書類の提出を何回も何回も求められ,しかもコピーでは改竄の恐れありとして受け付けてくれません.
そして銀行や郵便局はもちろん役所や法務局や裁判所にまで何度も出向き,ホームに出向いて母に自筆で書いてもらったり印をもらったり,足腰が弱っているのに銀行まで同行してもらって長時間待たせたりすることもしばしば,そして紙切れ一枚の仰々しい書類が出来上がるのに呆れるほど時間かわかかるわけで,途中で放り出したくさえなります.
死亡届などとっくに提出しているのに,縦割り行政の弊害甚だしく,各部署,各金融機関などが全くといっていいほど情報共有できていません.
光熱費の引き落とし口座変更手続きをしても,2,3ヶ月先になると言われ,しかもその間はつどつど郵便局やコンビニに出向いて支払わざるを得ず,場合によっては手違いなのか,未納に対する催促状まで来る始末,そっちの手続きが遅いからとちゃうの?と腹立たしくさえなります.
この世の中,相続問題で骨肉の争いになることや,隙あらば人の死や残された独居老人の弱みにつけ込んで悪事を働こうとする人間が後をたたないが故にここまで複雑怪奇な仕組みにせざるを得ないのだとは思いますが,さすが世界に冠たるデジタル後進国日本(笑)の,ガラパゴス化したお役所仕事,と感じてしまうのは私だけでしょうか?
せっかくマイナンバーカードが保険証代わりになったり,住民票や戸籍謄本をコンビニで取り寄せられるようになったのですから,これをどんどん進めて,例えば死亡届をネット経由で提出すれば故人が登録されている行政や民間にすぐに伝わるような仕組みが作れないものかと思います.
マイナンバーカードに種々の個人情報の紐付けを進めていく政府の施策に対しては,個人情報の漏洩や某隣国のように監視社会になるのではないかという懸念から反対意見も根強いですが,個人的意見としては,IT立国エストニアが成し遂げたように,出生,転居,死亡などの人生のビッグイベントだけでも簡単に登録できるほうがいいですし,そうすれば戸籍などという前時代的な制度も不要になり貴重な労働力がこんな非生産的なことにに費やされることもなくなると思います.
もちろんセキュリティを万全にすることが大前提であることは付け加えておきます.
さて,築50年以上になる一軒家の実家には,大量の遺品が残されることになリましたが,住人のいなくなったこの家を売却するにせよ解体するにせよ,これから整理せねばなりません.
とにかく亡父は何でもかんでも几帳面に取っておいたり記録しておくことが好きな性分で,私の小学校時代の手紙や写真や文集,自分が若い頃に銀行に勤めていたときの古い記録や書類や写真,結婚前に母にもらった手紙(これは必要!(笑)),果ては私が亡父に健康相談を受けた時に走り書きで渡したメモなど,よくこんなものまでと驚くものまで,古い封筒(これも黄土色に変色して歴史を感じますが)に分別するなどして山のようにありましたし,絵画が趣味であったため大量の油絵や水彩画も遺っています. これらから遺すべきものを取捨選択しなければなりません.
私たちとて,あと元気に生活できるのはあと20年あまりでしょうか,2人の娘たちに迷惑をかけなくていいよう,どんどん断捨離を進めています.
膨大な写真やアルバムはすでにほとんどデジタル化してクラウド上に保存していますし,今後残しておきたい紙の書類などもデジタル化を進めています.
父親の遺品も可能なものはデジタル化しようと思っています.
自分にとって思い入れのある品々というのは実際に手に取ると当時の思い出が走馬灯のように巡ってきて懐かしい思いに浸れるものです.
しかし自分が死んで子や孫やひ孫の時代になってしまえば,それらの多くは先祖が残した処分に困る遺品に過ぎません. 今は昔ののように大きな蔵を持っているような家も少ないでしょうから,保存にも困るでしょう.
もちろん,偉人や有名人の直筆や作品だとか,特攻に命を捧げた若者たちの手紙だとか,一流選手のユニフォームだとか,時を超えて受け継がれる大きな価値のあるものもありますが,少なくともその時点ではその価値はわからないですし,まあ私の遺品など,後世の人々にとっては残されても迷惑なだけでしょう(笑)
誰かがこんなことを言っていました.
今から100年も経てば,今この世の中に生きている人々は誰もいなくなる,そしてその時代の人たちにとっては,今生きている私たちのことなど大半は誰も知らないし関心もないだろう.
そう考えると,私たちひとりひとりの生き様も,そして悩みや不安や醜い争いも,実は取るに足らないちっぽけなものなのだ,だからもうあれこれ悩むのは止めて,今生きていることに感謝して楽しく生きようではないか?と.
Source: Dr.OHKADO’s Blog
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