“本音と建前”という人間界の通念は、社会を円滑に機能させる意味で欠かせない側面もあろう。
しかしながら、いつしかこうした使い分けをおこなうさなかに、本心(本音)を明かすことなく、あるいは本当の自分を現わすことなく生きていくことに、人間は次第に慣れてしまった。
自分を現わせないという苦しさを覚える一方、自分の生き方への責任を免れる、あたかも“隠れ蓑”のように偽りの人生を穏便に過ごすその人生は、そなたにいかなる意義を与えるだろうか?
そもそも“本音と建て前”が成立するのは、この人間界だけやもしれぬ。
自然界には見当たらず、そしてまた、われら(神々)の世界でもけして通用することはない。
たとえば神社に参拝する人々の姿は、いかに熱心に祈ろうとも、神の御前にてはありのままの姿、剥き出しの想い(本心)を(神に対して)さらけ出していると申せよう。
われら(神々)は、そなたたちの、何も取り繕うこと無い真の姿、本性を見出す。
無論、神社(の参拝時)のみならず、日常における人々の(良否)あらゆるおこないと心もようは、天界からすべて見通されているものと思うがよい。
そなたは天へ向け、自らの姿を堂々と示せるか?
それとも、隠れ蓑をより纏(まと)い、闇のさなかに一層身をうずめる人生を送るか?
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Source: 神々からのメッセージ



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