※筆者より【ご質問への回答⑤:無念の死を遂げた御霊にどのように接するべきか】

その他

先頃の【戦国武将の心意気】では、厳しき戦いの時代のさなか勇ましく命を遂げた武士たちの、肉体を離れてのちの霊的状況などを書かせていただきました。

人間はいつかは天に召されます。

肉体を離れる、というのは、世の中にどれだけ多様な生きざまがあろうとも、同じく受け入れるべきわたくしたち人間の定めです。

ですが、この“肉体を離れる”(=死)というのは、やはり少なからずそのときの状況(時代背景)や、さらには当人の心身の状態などもありますから、一言で言い切れるものではございません。

“大往生”と胸を張れるのは理想ですが、必ずしもそうばかりではありません。

怪我や病気などに起因する死も、また時代のさなかにあって、死することを回避できない無念の死に際も、これまで人類の歴史には数え切れないほどあるでしょう。

戦国時代に生きた先人たちは言うに及ばず、戦争の苦難を経るなかで尊い命が幾多失われました。

そういった、歴史的に後世に語り継ぐべきと人々が願い、たとえば歴史博物館や資料館などが設けられることがございます。あるいは、碑(記念碑)なども後世へと引き継ぐ想いが体現されたものでしょう。

だからこそ、その時代に生きたことの無い人々も、かつての状況を資料や遺物などから知ることができるのです。

今回いただきましたご質問は、上記のような場にて、歴史的な物事を目にする際には一体どうような心構えでいるのが良いのか、というものでした。

さらには、補足的な説明として、神社などで神に参拝する際には、感謝の気持ちをお伝えするが、それと同じような気持ちで良いか、というのも丁寧にお寄せいただいております。

故人を“悼む”ーーー その言葉通り、わたくしたちは“死”というものに対し、少なからず重要な意味を感じ取り、人の死したことに嘆き悲しむ、という心が備わっております。

人は生きることも、また死することでも、必要に応じ、それらの状況を次なる世への教訓とせねばなりません。そうでなければ、わたくしたちは人類として生き延びていくことはできないゆえです。

ですから、その意味では、やはりご質問にあるとおり、今わたくしたちが現にこの世に生きられているのも、あるいは恵まれた環境でいられるのも、かつての先人たちの命が多数投じられたからとも申せます。ですから、神へするのと同様に、“感謝の気持ちをお伝えする”のは本当に真っ当な行為とわたくしも思っております。

さてここからが、霊的な観点からの解釈です。

わたくし自身、記事で書かせていただいたような、戦国武将たちが活躍したとされる古戦場や城跡、あるいはそれ以外では、古(いにしえ)に飢饉が起きた地域などにも参ります。

そして、戦争などの慰霊碑や資料館、空襲があった地、集団自決の地などにも多数訪れております。

こうした様々な状況のさなかに尊い命が失われるのですが、死した魂はいずれも、肉体を離れて以降、(死に至るまでの)人生の辿り方とその結果(の自らの死)についてを、地上より少し離れたところで俯瞰(ふかん)していくことになります。

なぜこのようなことが起きたのか、そしてなぜ自らが“死”の状態に至ったのかを、縁ある御霊たちの支え(御指導)をいただきつつ、つぶさに省みていくのです。

そして、霊魂は思います。“わたしの存在は、この世において何に役立ったのか”を。

どうせ限りある命なら、短くても、あるいは無碍(むげ)に途絶えてもよい、とは誰一人思わないのです。

長いなら長いなりの、そして短いなら短いなりの、人の生(人生)の意味が必ずあります。

肉体を離れまるともはや後戻りはできませんが、より積極的な意味においての、“わたしの命は生かされたのだろうか”を考えるのです。

そうした意味においては、先述した、時代の苦難にあって惜しくも命を潰(つい)えた先人たちがいてくださったからこそ、今のわたくしたちの世があるのだと思うことにもつながります。

さらにもう一歩踏み込めば、哀れ(かわいそう)というような同情よりも、むしろ前向きな死と、ひいては、その魂の生前の人生の意義を捉えていく、というのが霊的には(その御霊を)もっとも弔うことになるのです。

極端なたとえにはなりますが、わたくしが戦国時代の霊魂と対話する際に大切にしているのは、かつての猛者(もさ)の、その雄々しいエネルギーに、こちらの霊体も“合わせる”ことです。

霊魂の世界はまさに端的で、その(エネルギーの)強弱はそのまま霊的な作用として現わされます。少なくともか弱いエネルギーを巡らせている霊魂は無く、一つ当たりそこなえば、ではありませんが、強力な霊の姿に対し、こちらとしても気弱になるなどの安易な“隙”は作ってはならないのです。

そのときばかりは、まさにわたくしも“猛者”でしょうか。その霊魂が死した歴史的背景や、さらには死の際の状況は、無論、惨(むご)かったり憐れだったりするのは重々承知しているのですが、それよりも重きを置くのは(大切にするべきは)、堂々と相対(あいたい)する意気をもつことです(※霊魂としっかりと対話するためにも必要な心構えです)。

礼節をもって、しかしながら目前の霊魂に対して、哀れみではなく、敬意の念をもって、“さぁ、互いに胸襟を開き、話し合いましょうか”という毅然とした態度をとるのです。

これは戦国武将のみならず、どのような御魂に対しても、もし可能でしたら是非お持ちいただきたい心構えです。

死を悼むことはすなわち、嘆き悲しむことのその先に、いつかは何らかの糧として、それすらも生かしていく、という、今を生きるわたくしたちこその責務があるのです。

かつての先人たちのその死した状況を慮(おもんぱか)れば、悲しみや切なさ、あるいは非業(ひごう)の死を遂げたという事実はときに恐怖さえ起こることではございますが、けして怯(ひる)むことはありません。

どうぞいずれの御魂に対しても、“あなたの心意気はわたしがきちんと受け止めましたよ”と、むしろ堂々と、皆様なりの“ありがとうございます”をお伝えしていただければと願います。

以上。

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Source: 神々からのメッセージ

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