人間本来無一物(にんげんほんらいむいちぶつ)

健康法
人間本来無一物(にんげんほんらいむいちぶつ)

身は是れ菩提樹
心は明鏡台の如し
時時に勤めて払拭せよ
塵埃を惹かしむること莫れ

菩提本(もと)樹無く
明鏡も亦(また)台に非ず


本来無一物

何れの処にか塵埃を惹かん


で、、

俗っぽいニワカ禅は、

禅では「人間本来無一物(にんげんほんらいむいちぶつ)」と言います。「お前生まれて来た時には何も持っていなかっただろう?」ということを再認識するための言葉です。人はあれもこれもと物を欲しがるし、「これが無くてはいけない。あれが無くてはいけない」とあくせく生きていますが、本来私たちは無一物で生まれてきて、死んだらどうせ無一物になる存在なのです。そう考えるとほんの少しのもので結構生活が楽しめますよ。

なんてことを言う。

本来私たちは無一物で生まれてきて、死んだらどうせ無一物になる存在なのです。そう考えるとほんの少しのもので結構生活が楽しめますよ。

この言い方は、、

何も持たずに生まれてきて、生きている時はあれもこれもと欲張るし手に入れるが、死んだら結局また何も持って行けないまま「逝く」。

と言いたいみたいですけど、、、

※大抵、葬式の時の坊主の説法・講和に多い(笑)

で、身体軸的には解釈は違う。

本来一切は空で無である。そして同時に色であり有である。

色即是空 空即是色 ですからね。

ゼロであって密である。

持っていて持たず、持たずにいて持っている。

ただ、その世界に居るだけだということ。

そこは、只管打坐の禅ですからね。

有るけれども無いのであり、無いけれども有るのである。

有って無く、無くて有る。

そこに囚われない境地です。

ですから、、

「質素に暮らす」とか、そういう概念は無い。

「質素」という概念も無い。

自分は質素に暮らしているという考え方自体が、、

「囚われの世界の住人である」ということ、、

つまり「有る」世界を基準に比較するから「質素」という言葉が出る。

つまり何かを握っていて、手放してはいない。

それは質素ではないということです。

そして禅でもない。


仏光というエセ禅坊主は、、

数十万円かするロードバイクで、ランニングコストゼロ円で楽しめると言いますが、、

そのイニシャルコストはとても高い(笑)

物質的豊かさを甘受しているエセ禅坊主が、、

でも質素に暮らすことが楽しめる人間性を養っておくと、物質的に豊かでなくても、お金や社会的地位を追い掛け回さなくても、大変心豊かに暮らすことができるようになります。ランニングコスト0円でめちゃくちゃ楽しむのもその一つです。そういう価値観の変革ができる人からこれからの世の中を真に幸せに生きることになるのだと私は思います。「人間本来無一物」、これは物質的な豊かさを求めることができない時代ほど認識しなければいけない大変大切な真理だと思いますよ。
ナイフ一つで木を伐り出して楽しむ趣味とかならともかく、、

希少価値な手に入らない工場生産品のロードバイクです。


それが「俺質素でしょ?」と、、(笑)

上から目線で何かを言うのは、、、

偽善者だし、、

笑い話だというコトです。


20年仏道修行して還暦を過ぎてもこんなゴタクのブログを書く、、、
そもそも「修業は不要」ってのは釈迦の最も基本的なベースです。
ロードバイクが楽しい=修行は不要ってのが、無駄な20年を表していますね。
釈迦のミチを行くのなら、ホームレスになることなんですから、、、



取り敢えずこの辺で。
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Source: 身体軸ラボ シーズン2

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