日光市山内に位置するのが① ②でお伝えした二荒山神社ですが、男体山の登山口を構えるお社が“中宮祠(ちゅうぐうし)”です。
こちらは、中禅寺湖の間近にあります。前回お参りした際には真冬の早朝でしたため、湖から寄せる風と相まって身の凍えるような思いをしました。階段上がってすぐの、稲荷社の幟(のぼり)群が大きく風にはためいていたのが印象的で、非常に思い出深いお社です。
本日は、中宮祠の御祭神よりの御言葉をお伝えいたします。
Rinokia
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「人生は、山道のごとくに険しいーーー
だが、いつ終わるとも知れぬ苦悩にあって、その“歩み”を止めることはけして許されない。
歩みを止めることは、すなわち、自らの人生を投げうつことでもあり、人間として果ての(=最後の)選択であるやもしれぬ。
今なお歩むその道程は苦しいか?
一歩一歩、苦痛を伴う歩み(=日々)は、なんら心の喜びを見い出せぬであろうか?
そもそもなぜ人は、山を登るのかーーー
あるいは人は、なぜ、そうまでして(=苦しい思いまでして)自らの人生を歩もうとするのか?
山を歩けば、たとえその険しきなかにも、豊かな自然は存分に(=沢山)現わされ、ふと心和ませることもあるだろう。
生命盛(さか)り、まさに伸びゆく木々、そして草花に、力を得ることもあるあろう。
そして、苦痛乗り越えた先の、頂(=頂上)のまさに見渡す限りの雄大な光景は、登り続けた者のみが勝ち得る、無上の喜びである。
人生は、悲喜こもごもであり、だがけして苦しきことのみではない。
いいや、苦しきことばかりと思えば、そこで歩みは止まる(滞る)。
ゆえこそ、険しき山(=人生)を登る、そのさなか、自らの心は一体“何に”向けるかーーー
古(いにしえ)よりの者たちは、置かれたその厳しき境遇(環境)のさなかにあって、なお、心を自在に変化(へんげ※ここでは、上手に適応した、という意味です。)したではないか。
今まさに人々は、窮屈なる状況をそのままに、あるいは苦しき様(=状態)を苦しきままに捉(とら)え、心身を疲弊し続けている。
行き場無し(=やりようがない)として、生きることの数多(あまた)の選択を、一つひとつ自ら断つ者のいかに多きことか。
何よりも、この世に現わされる地上の奇跡、めくるめく季節、そして幾多の天の恵みに、“気づく”力を。
そして、今まさに苦境のさかにあって、心は緩み(=ゆとり)を得ていくーーー その鷹揚なる気構えを、自らこそを(苦境から)“救い上げるために”大いに用いるのである。」
以上。
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Source: 神々からのメッセージ
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