下野国一之宮 日光二荒山(ふたらさん)神社③ 中宮祠【険しき人生のそのさなかに】

その他

日光市山内に位置するのが でお伝えした二荒山神社ですが、男体山の登山口を構えるお社が“中宮祠(ちゅうぐうし)”です。

こちらは、中禅寺湖の間近にあります。前回お参りした際には真冬の早朝でしたため、湖から寄せる風と相まって身の凍えるような思いをしました。階段上がってすぐの、稲荷社の幟(のぼり)群が大きく風にはためいていたのが印象的で、非常に思い出深いお社です。

本日は、中宮祠の御祭神よりの御言葉をお伝えいたします。

Rinokia

***

「人生は、山道のごとくに険しいーーー

だが、いつ終わるとも知れぬ苦悩にあって、その“歩み”を止めることはけして許されない。

歩みを止めることは、すなわち、自らの人生を投げうつことでもあり、人間として果ての(=最後の)選択であるやもしれぬ。

今なお歩むその道程は苦しいか?

一歩一歩、苦痛を伴う歩み(=日々)は、なんら心の喜びを見い出せぬであろうか?

そもそもなぜ人は、山を登るのかーーー

あるいは人は、なぜ、そうまでして(=苦しい思いまでして)自らの人生を歩もうとするのか?

山を歩けば、たとえその険しきなかにも、豊かな自然は存分に(=沢山)現わされ、ふと心和ませることもあるだろう。

生命盛(さか)り、まさに伸びゆく木々、そして草花に、力を得ることもあるあろう。

そして、苦痛乗り越えた先の、頂(=頂上)のまさに見渡す限りの雄大な光景は、登り続けた者のみが勝ち得る、無上の喜びである。

人生は、悲喜こもごもであり、だがけして苦しきことのみではない。

いいや、苦しきことばかりと思えば、そこで歩みは止まる(滞る)。

ゆえこそ、険しき山(=人生)を登る、そのさなか、自らの心は一体“何に”向けるかーーー

古(いにしえ)よりの者たちは、置かれたその厳しき境遇(環境)のさなかにあって、なお、心を自在に変化(へんげ※ここでは、上手に適応した、という意味です。)したではないか。

今まさに人々は、窮屈なる状況をそのままに、あるいは苦しき様(=状態)を苦しきままに捉(とら)え、心身を疲弊し続けている。

行き場無し(=やりようがない)として、生きることの数多(あまた)の選択を、一つひとつ自ら断つ者のいかに多きことか。

何よりも、この世に現わされる地上の奇跡、めくるめく季節、そして幾多の天の恵みに、“気づく”力を。

そして、今まさに苦境のさかにあって、心は緩み(=ゆとり)を得ていくーーー その鷹揚なる気構えを、自らこそを(苦境から)“救い上げるために”大いに用いるのである。」

以上。

***
※応援して下さる方は、下の2箇所のクリックをしていただけますと、
大変励みになります。

精神世界ランキング
人気ブログランキング

※ご質問はコメント欄へお寄せください。
内容を拝見し、お答えが可能なものに関しては、順次ブログにて回答を掲載させていただきます。
***



Source: 神々からのメッセージ

コメント

タイトルとURLをコピーしました