先頃より岩手県は盛岡市に到着いたしました。
盛岡駅からバスで約20分ほどで、見るからに広い境内に辿り着きます。
仰ぎ見るような大きさの鳥居をくぐり抜け、石段を上がりますと、すぐさま壮麗な造りの本殿が見えてまいります。
約44,000社と言われるように、全国には沢山の八幡宮がございますが、こちらも素晴らしい荘厳な雰囲気で、参道を歩きながら自ずと気分が晴れやかになってまいります。
御祭神は、品陀和気命(ほんだわけのみこと)=第15代 応神天皇です。
境内には数種類の絵馬や、あるいはおみくじを結べる場が多く設けられております。瓢箪(ひょうたん)の厄除け守りや、あるいは鯛を模した入れ物から釣り上げるおみくじなども微笑ましく、授与所のアイテムも、ネーミングやモチーフなどかなり工夫されている印象です。
人生の様々な節目にこれまでも、またきっとこれからも多くの方に寄り添う神社なのだろうと、しばし思いを馳せました。
もっともわたくしが新鮮に驚いたのは、拝殿の鈴です。これまで訪れた多くの神社では、大きな鈴一つをカランコロンと鳴らすものをよく目にしていたのですが、この八幡宮では、小さい鈴がいくつも上部に連なっていて、まさに“鈴生り(すずなり)”状態です。
参拝される方が鳴らす度に、シャンシャンと小気味よい音が響き、抜けるような青空と強い日差しに相まってとても思い出深いひとときとなりました。
本日は、八幡大神からの御言葉をお伝えいたします。
Rinokia
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「以後(今後)人は、一層、“死”を間近に生きることとなろう(※死を意識して、という意味です)。
人の死を垣間見、あるいは、わが身がいつ死に至るか、と、世に見ゆる(見える)幾多の減少を通じ、いよいよ(より一層)死が、常に一体(=生活と表裏一体)であることを感じていくのである。
だがそれは、何もかも、今在るわが身の、“生きる”をより高める(=より良く生きる)ことに心して(意を決して)変えていくがためである。
今や、いまだ会わぬ(=実際に会わない)者同士とても、その生き様を互いに見合い(知り合い)、時に己の日常の“教訓”ともなり得る時代となった。
世(世間)に言うところの “人の振り見て我が振り直せ”のごとく、もし仮に、人の好ましからざる姿を垣間見るならば、けして批判の意(意味)とせず、ただ静かに、わが身こそを正してゆけばよい。
一方、もしその(人の)姿が好ましく、あるいは憧れるべき姿と感じ得る(思える)ならば、これこそ、わが身に求むる姿として大いに取り入れ(※学ぶ=まねぶ、ということを表しています)、自らを(理想の姿に近づくよう)堂々と高めればよい。
以後、この世は、地上の大きな変容(変革)によって、死もまたしかるべく促されて(促進されて)ゆくだろう。
ゆえこそ、人の“生”(=生きる)もまた、いよいよ(より一層)促されてゆかねばならぬ。
ただ一人の命(人生)なりとも、幾多の命を背負うーーー
今や一人の生き様にて、生きるを“幾重にも”体現する時代となった。」
(次回②へ続きます。)
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Source: 神々からのメッセージ
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