“かみね公園”という、動物園ありレジャー施設ありの広大な公園内に「神峰(かみね)神社」はあります。
こちらの御祭神は、「伊邪那岐命(いざなぎのみこと)」「伊邪那美命(いざなみのみこと)」、そして「熊野櫲樟日命(くまのくすひのみこと)」です。
“鉾(ほこ)”を御神体とする全国でも珍しい神社で、これは、古事記の国生み神話から由来するためだそうです。
重厚な権現造りのお宮は、威風堂々としてなかなかの見応(ごた)えがあります。社殿の各所に施される彫りも見事です。
神社の脇には、竹林の“裏参道”もありましてわたくしも歩いてみました。風情のある小径で、季節によってまた風情が変わっていくのではないでしょうか。
本日は、本殿にての神の御言葉をお伝えいたします。
Rinokia
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「周囲や他(他人)に“合わせる”ことについて、今一度、考えを深めていただければと思います。
あなたがたは、今の世(現代)において、(合わせる、ということに対し)どのような見解をお持ちでしょうか?
昨今は、“自由”を尊しとする風潮が、世(=社会)を占めることとなりました。
いずれの人も、様々な場面にて、他(他人)と関わらねばならぬゆえ、“合わせる”とは、ともすれば “迎合する” “我慢する” “主張しない(自分の意見を言わない)”などと、自らの表現(特質)を無暗に控える、いわば意志薄弱な、不甲斐無い行いと思うやもしれません。
ですが、本来であれば、“合わせる”とは、心が裕(ひろ)き(※心に余裕があることを指します。)を得てこそ真に叶うものです。
たとえば、自らの考えが偏り、あるいは頑ななる観念に囚われている限りは、それはむしろ、心に枷(かせ)をはめるがごとく、自由に想いを馳せることは叶わぬでしょう。
安易な迎合の意(意味)ではなく、他(相手)に合わせることは、その者(他者)の存在について、感覚(感受性)や、あるいは背景となる物事を慮(おもんぱか)り、受け入れる(受容する)ことなのです。
そして、もう一つ、大切なことをお伝えしましょう。
“合わせる”とは、“あ”――― 物事の始まり(創始=物事の起こり)、“わ”――― 和(調和)を示し、この双方に、自らの考えと生き方を寄せていくことです。
それは、何よりも、あなた自身の人生にいて、整然と、順序正しく導かれることを示唆するものです。
物事には、必ずや“道理”があります。
壮大な宇宙も、あるいはごく微細(極小)なる生き物にも、すべて道理があり、しかるべく巡って(=機能して)おります。
それであるなら、あなたがた(人間)の生き方にも、ある一定の流れ(傾向)があり、それを理解し、心柔らかく順応していくことは、世の術(=処世術)でもあるでしょう。
力づくでは成りゆかない(=うまくいかない)世(時代)となりました。
ゆえに、今こそ、“合わせる”意義を、あなたがたは変局の世に見える(現わされる)事象に接するなかで、深く知り得てまいるのです。」
(次回②へ続きます。)
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Source: 神々からのメッセージ
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