下谷七福神巡りの2社目、真源寺から次の英信寺へは迷いに迷って辿り着きましたが、実はそのさなかに、今回のお寺「法昌寺(ほうしょうじ)」を見つけておりました。
こちらは、法華宗本門流ということで、宗派としては、織田信長公の終焉の寺、京都の本能寺と同じだそうです。
やや背の低い、どっしりとした山門をくぐり、すぐ左手には御本尊の大曼荼羅(だいまんだら)をお祀りする本堂と、さらには境内奥に、七福神の一柱、必勝開運の神と呼ばれる毘沙門天のお堂がございます。
本日は、本堂にて祈った際の御仏よりの御言葉をお伝えいたします。
Rinokia
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「万物はいずれも“巡りゆく”のがこの世の常であるならば、目に見えると見えざるとにかかわらず、すべてが順繰りと進むのが理(ことわり:道理)とも申せましょう。
その意味では、たとえ、しがみついてまでも物事を固持する(=意見や信念などをかたく守って変えないこと。固執。)としても、いつかは瓦解(がかい)されるものです。
この(瓦解の)さなかに、人は、世の無常とまた(自分の思うとおりとはならない)現実の様を知ることとなります。
“巡りゆく”ーーー
これは様々な意味合いを含みます。
自らの発した物事が、“次へと”連なることも然(しか)り。あるいは、“自らに”再び還(かえ)ることもまた、大いに見定める(=理解する)べきでしょう。
ですから、人の表す(表現する)その姿も、いずれは再び、己に還るのです(※ここでは、人生の良し悪しに反映する、という意味です)。
険しき面(おもて=表情)の、まるで頑(かたく)ななる姿、またその機縁となる(頑固な)思考は、やがてはこの先の人生において、自らが大きく揺るがされるほどの大事(おおごと)をもって、その是非(良否)に気づくことになる。
あるいは、もしこの世の“根底”(=大前提)として、融和の御代なることを感じ、あらゆる人と和する(=仲睦まじく関わる)べしと心得、柔和なる姿(=姿勢・態度)を表すならば、それもまた自らに還り、眼下に望む(眺める)世界は“和睦(わぼく)の様(様相)”となりましょう。
人はいずれも、何に代えることの叶わぬ命(人生)であるゆえに、その身こそ、何よりも大切にせねばなりません。
この世に生きるとは、けして抗(あらが)うことではありません。固く、他(周囲)を撥ね除ける(はねよける)がごとくの、孤立無援の人生を過ごすことでもない。
どの存在もまさに等しく、この世における(命の)尊厳をたずさえ、そしてなお、絶えず愛(※ここでは、男女の愛のみならず、様々な関係における思いやり・労(いたわ)りなどを指します。)を注がれるべくの、“珠玉の光”なのです。
この真実(真理)を、この世に知らしめるがため、人は自らのその姿をもって示さねばなりません。
すなわち、己の柔和たる、麗しき鼓動(=関わり・やりとり)の伝播によって、めくるめく“協和の御代(みよ)”となることを。」
(次回④(2) へ続きます。)
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Source: 神々からのメッセージ
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