神の詩第二章第四~六節 4

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神の詩第二章第四~六節 4

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続きます。

「ビーシュマとドローナに、どうして弓矢を持って立ち向かうことができようか。」

また、
霊的解釈では、
アルジュナの心の中にある
ビーシュマ(自我、利己主義)

ドローナ(過去世からの性質)
を消すことなど出来ない
という
アルジュナの葛藤を表現しています。
自我と利己主義を滅するとは、
それほど大きな敵と向き合うことであり、
ほとんどの人が
立ち向かうことすらしないことでもあります。

自我を滅した人たちの生活を語る逸話は
たくさんありますが、
ここで一つご紹介しておきましょう。

江戸中期の禅僧で
臨済宗中興の祖と称される
白隠慧鶴禅師の逸話です。
白隠禅師の名は、
悟りを開いた高僧として広く知れ渡っており、
全国の僧侶をはじめ、
大名や武士、農民から町民まで、
あらゆる階層の人々が教えを求めて
禅師のいる松蔭寺を訪れていました。

禅師は、
寺の大広間で数百人の人々に講話をしたり、
田んぼの畦道に座り込んで農民たちに説話をしたりして、
すべての村人達に慕われていました。

ある時、
白隠禅師の村の未婚の娘が妊娠しました。

現代とは違い、
江戸時代の未婚の妊娠はあってはならないことです。

激怒した父親が、
娘に相手は誰かと問い詰めました。

娘は父親が怖くて、
本当の相手のことを言えませんでした。

娘は、
皆に慕われている禅師のことを咄嗟に思い、
「私のお腹の子の父親は白隠禅師です。」
と嘘をついてしまいます。

それを聞いて怒った父親は、
白隠禅師の寺へと怒鳴り込んでいきました。

すると師は、
何の言い訳もせず
「おまえの娘がそう言っているのであればそうだろう」
と答えたのです。

この話は、
瞬く間に村中に伝わり、
師の名誉は汚名へと変わり、
村人たちからは軽蔑され、
師が堕落したと去っていく弟子もいました。

師は誤解されたまま、
何も言いませんでした。

そして、
その娘が産んだ赤子を引き取り、
育て始めました。

もともと師は、
身寄りのない子供たちを寺で引き取って
育てていたのです。

でも、
その子供たちのことまでも、
きっと師の隠し子なのだろうという心ない噂が流れました。

やがて
禅師のいる寺には誰も行かなくなり、
師の講話に耳を傾ける人もいなくなりました。

師が寺の外へ出ると、
すべての村人が師を軽蔑のまなざしで見ました。

そして
さらに
三年が経ち、
良心の呵責に耐え切れなくなった娘が、
父親に嘘をついてしまったことを告白し、
本当のことを話します。

父親は真実を聞いて仰天して、
すぐさま師の元へお詫びに駆け付けました。

すると師は、
にっこりと笑い、
「そうか」
と一言言って、
子どもを娘に渡しました。

これは
白隠禅師の自我を滅した心の広さを表した逸話として知られています。

禅師は
すでに自我を滅していたために、
どんなことがあっても、
嘘は本当ではないから気にすることはなく、
本当のことであれば本当であるから気にすることも無い、
という境地に在ったのです。

日常生活では、
理不尽なこと、
納得できないこと、
腹立たしいことなどが、
たくさんあると思います。

それらは、
自我によって振り回されます。

白隠禅師ほどにはできないとしても、
そういった一つひとつの出来事を許していくたびに、
自分の心が広く美しくなり、
人として成長していくものだと思います。

誤解されても、
自分の心を中心に生きることの素晴らしさ、
許すことの素晴らしさを、
白隠禅師からあらためて教えられます。

「地上での生活は、一日一日が挑戦すべき課題です。どのような次元の問題であったとしても、自ら克服すべきものとして受け入れるべきです。内なる霊性さえ発揮できれば、前進を阻むものは何もありません。」シルバー・バーチ
第二章七節でアルジュナは、
クリシュナに教えを請います。
「私は弱気に圧倒されて理性を失い、何をすべきか迷っている。願わくは、何が良いのかをはっきりと語りたまえ。私はあなたの弟子である。あなたに救いを求める私を導きたまえ。(七)」

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Source: ひかたま(光の魂たち)

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